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江國香織さん『すいかの匂い』『東京タワー』読書感想

江國香織の良さはいくつもありますが、漢字で書きそうな箇所をひらがなにする審美眼が独特なので、それについて書いてみます。江國さんは、絵本作家というキャリアもあるからか、ひらがなに対するこだわりというのか、独特の目線を持っています。

江國さんの小説である『すいかの匂い』の解説には、「江國さんは漢字とひらがなにも独特の選択眼を持っている。(中略) 文章の中での、言葉の力の入れ方を決めるために、江國さんは漢字とひらがなを選ぶにちがいない。」と書かれています。江國さんが文章の中でどういう意図でひらがなの言葉を使っているのか、考えてみたいと思います。ネタバレ含みます。

『すいかの匂い』の中の『弟』という短編集では、葬式の描写が多くでてきますが「弟は、ずいぶんと白いきれいな煙になって、晴れた空にのぼっていった」とあります。のぼっていったとひらがな表記にしてあり、「上っていった」とかではないんですね。「昇っていった」でもない。「弟は、ずいぶんと白いきれいな煙になって、晴れた空にのぼっていった」の次の文章は、「高い煙突からほっそりと女性的なしぐさでたなびきながら、弟はいかにも気持ちよさそうに、愉快げに笑っていた。」になっており、女性的でやわらかなイメージになっています。「上って」という漢字表記だと、まずそもそも「あがって」と読むのか「のぼって」と読むのか不明瞭だという機能的な問題がありますし、「昇って」だと上昇志向がある男性的なイメージを思い起こさせてしまうから、あえて柔らかいひらがな表記にしたのだと推測されます。それをすることで、煙の描写をくずさないようにしています。

前後の文も加えて、ひらがなにするかどうか吟味していると推測されます。この『弟』という話の中で、庭で遊んでいた小学生に、祖母が「ころばないでね」と声をかけるシーンがあります。これも、「転ばないでね」としてしまうと、転ぶという漢字が強すぎる感触があり、本当に転んでしまうような感触が小説内に出来上がってしまうため、避けたのでしょう。「転」という漢字は、「転落」とか「回転」とか、大きな動きがある場面で使われやすい漢字であり、意味として濃すぎるんだと思います。小説の見せ場としては、先に出した弟の煙の描写などの静かなイメージなので、そことの整合性が取れないということなんでしょうね。この小説のなかで「私は、お葬式をかなしいものだと思ったことなど一ぺんもない。」という文が出てきますが、悲しいといわずに「かなしい」とするのも、悲という漢字が意味として重すぎるために、避けたんだと感じます。

漢字じたいの文字の意味も、考えられているのかもしれません。悲しいという漢字は、上は「非」で下が「心」になっているのを見るに、漢字をぱっと見たときのイメージを考慮しても、意味として重すぎる印象があります。心ここに非ずってことなんですかね。そうだとすると、ぼんやりしてしまうほどの感情だ、というような重さがあります。じっさいの江國さんの文章は「かなしいものだと思ったことなど一ぺんもない」なので、主人公は悲しいわけではないんですよね。そのため、悲しいという文字は使っていないのかもしれません。

また江國さんの文章を読んだときに思うのは、親しみや気持ちよさを表すときに、江國さんはひらがなと使っているのではないかということです。別の話の『水の輪』では、下記の描写が出てきます。「街道ぞいに、小さな和菓子屋があった。(略) あまり上等な店ではなかったが、(略) 季節ごとのお菓子の名前をそこで覚えたし、奥でもち米をふかすやわらかな匂いがして、私はその店が好きだった。」この、奥でもち米をふかすやわらかな匂い、これだけでもう実在しないこの店に親しみを持ってしまいます。こういう和菓子の店の描写だったら、美しい緑の色合いをしている和菓子だとか、そういう表現が一般的だと思いますが、色など視覚的なものだと読者によって好き嫌いが分かれるためか、匂いで小説の空気感を感じさせていっています。

また、江國香織の良さのひとつに「美しい」って言わないところがあると思うんですよね。それを言わずにどう表現していくか、そういうところに時間を割いている良さなんですよね。中学生の頃、国語の授業で「美しいとか、形容詞を使わずに俳句を作る」という授業があったんですが、日本の俳句にも通じるところがあります。

江國さんの『東京タワー』では、軽井沢の森で「いい風」と「うっとりと言った女性が、目をとじた…(中略)…」という文があります。「目を閉じた」ではなく、「目をとじた」というのも、小説の中の恋愛に引き込みつつ、読者に親しみを持たせる工夫なのかもしれません。

ありがとうございました。




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