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中国人に「国情不一样嘛(“国情”が違うからね)」と言われたら?

中国の人と話す時に、よく言われた言葉がある。

国情不一样嘛? (guóqíng bùyíyàng ma)
”国情”が違うからね


どんな時に言われたのか。思い出すと、それは議論をした時だ。
特に、日中の歴史や政治に関わる話で議論をした時。

最初この言葉を聞いた時は、意味がわからず聞き返した。「ん?guoqing?」と。
しばくして、わかった。ああ、"国(guo)"の"情(qing)"況(kuang)か、と。
しかし、「国情」なんて言葉は、普段の会話でそうは使う言葉じゃない。

最初話した方が教養のある方だったので、そういう難しい言葉遣いをされる人なんだなあと思っていたのだが、その後、いろんなタイプの方と話して、何度もこの言葉を耳にすることになった。どうもこの言葉、すごくよく使われるようだ。

「日中の歴史や政治に関わる話で議論した時」と書いたが、そのどういう場面で登場するのか。それは、いつも同じようなパターンの時だと気がついた。

最初に、相手が日本の批判をし、私がそれに対して、相手の主張の中でも、確かにそうだと自分も思う点に対しては認め、酷いと思うことは酷いと言いながらも(相手は、まずこれにちょっと戸惑うようだが)、相手の主張で正しくないと思うことについては淡々と反論を述べていく。

そして、今度は自分が普段中国の政治などでおかしいと思っていること、矛盾していると思うところをつめていく。「私はそう思うんですけど、この点はどうですか?」と。

そうした時に、出るのだ。「国情不一样嘛」が。

そもそも最初は向こうから議論をふっかけてきたのに、まるで自らふっかけた議論を自ら強制終了するかのように、この言葉が出てくるのだ。

そして、特に、私が「言論の自由」に触れた時に出てくることに気がついた。

「私は自分の国が好きだからこそ、自分の国が間違ったことをしたと思う時は、間違っていると言う。いろんな意見があって当たり前。そもそも、国を愛することイコール政権を愛することではないのでは?私イコール日本政府じゃない。あなたたちも、愛国イコール愛”党”ではないのでは?そして、自分の側に非があればそこは認めることが前提になった者同士でないと、議論は成立しないと思うけど」

・・・と、言うと、この「国情不一様」が出て、ゲームオーバーなのだ。

そして、私もゲームオーバーを受け入れる。勝者も敗者もない。ノーサイドだ。ましてや「論破」なんて傲慢で独りよがりな言葉や行為は、一番嫌いだ。

こうした話を聞くと、「ははは、相手は何も言えなくなっちゃったんだ。」といじわるなことを言う人もいるだろう。そうかもしれない。しかし私は「国情不一様」には、いろいろ深い思いが込められていると思う。おそらく我々が思っているほど単純なものではないように思う。

大事なのは、自分がいかに何かの呪縛なしに自由な頭で、相手の話も聞き、反省すべきは反省し、反論すべきは反論し、いかにして相手との関係で何かを得られるようにするか。「論破」からは何も生まれない。

「国情不一様」のゲーム終了のホイッスルを、相手が勝手に吹いてきた時は、黙って受け入れて、楽しい話題に換えたらいい。「君の言いたいこと、わかったよ」と言ってくれているのだから。

そしてここから、相手の本音も聞けて、お互いにリスペクトする関係を築けることになるかもしれないのだ。実際こういうやりとりで、信頼できる関係になった人が何人もいる。

それにしても、だ。外国語でこういうやりとりをするのは、正直、疲れ果てる。半端ないエネルギーを使う。英語でも同様。日々苦労している。言葉ではネイティブに比べてハンディがあるわけだから、表情を豊かにしたり、よくわからないところは、日本語もちょっと入れたりして、頑張るのだ。

しかし、やり遂げた後は、自分の表現能力は大きく伸び、相手との関係でも大きな収穫があるはず。

こうして、世界中の人たちとの議論することを楽しめる人たちが、少しでも多い世の中になってほしい。今の日本の閉塞感を打破する力になる気がしてならない。

国情不一様。そして、各個人も「不一様」。それを受け入れるところから、全てが始まるはずだ。


今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
AJ😀







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