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定年45歳!? ”この種の”発言をする人、”やたら”支持する人に思うこと

ショックを受けた自分


きょうは、「英語✖️中国語=♾!」の「英中同時学習」とも、アフガニスタン情勢とも関係のない話題を、単につぶやきたい。独り言です。

有名企業を渡り歩く超エグセクティブによる「定年を45歳に」発言--- 過日世間をざわつかせたこのニュース。

自分の会社も、最近40、50代の社員に対して露骨に肩たたき的なことを始め、自分の将来が不安で不安で仕方ない時に聞いた言葉なので、自分にとっては衝撃で、地の底に叩き落とされた感じがした。

定年は、大多数の会社員にとっては、第二の人生の為の蓄えも不安な中で、年齢を理由に「はい、終わりです」と言われるものだ。

しかし、ここでは、この”45歳定年”発言の是非や、「発言の真意は違う」というような話、また日本の労働モデルの問題点や、国際競争力などの観点からの議論は、しない。ただ、自分が感じたことだけを書いておきたかった。

この定年の話のみならず、自信に満ち溢れて”この種の”発言をする人や、こういうような考え方が(やたら)好きな人、また、それについて反対や不安を訴えた人を(やたら)冷ややかに批判したがる人たちを見て、私がいつも感じることがある。

それは・・・

① 自分は”特別な存在”で、”安全圏”にいると思っているんだな。

②  「頑張ったらor有能なら評価される」(=自分は頑張ったor有能だから評価されている=評価されない人は無能or頑張らないから)、そして「評価は公正なもの」と信じてるんだな。


・・・ということだ。

「自分は70歳だが、有能で、努力もしてきたから当然まだ幹部だ」
「自分は45歳定年になっても、必要な人材として残ることにはなるはず」
「自分は45歳定年を待たずしても、能力を生かして転職するつもりだ」

・・・そう言える人は、ほんの一握りの幸せな人だ。

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そして、特に②。

自分がこれまで経験したことや、見てきた各種のハラスメントを考えると、一体、世の中にあるどれぐらいの人事評価が”公正”と言えるだろう。多くの人にとって、世の中は理不尽なことだらけ。権力を持った“困った人”が部下を評価する時に起きる悲劇・・・それは時にものすごく惨めで、部下の人生を左右することもあり、そして不利益なものでもある。

以上、感じたことだけを書き殴った。
しかし、いくら書き殴っても、自分の不安が解消するわけではない。

これから、どうする?

いくら理不尽でも、不運でも、そのことは真実だとしても、自分はなんだかんだ言って組織に守られてきたではないか。そのこと自体、十分贅沢なことではないか。一匹狼でやってきたら、今ごろとっくに野垂れ死んでいただろう。

そんな認識はちゃんと、ある。だから、必ずなんとかしよう。

さて、何をやるか。

今こうしているうちにも、時計の針がチクタク・・・一秒一秒歳を取っていく。
まずは、今定年を告げられたつもりで、生きてみようと思う。

AJ 😀


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