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「不自由」は、時々心地いい

ぼくの人生は、ときどき思い出したように密集して、自由になりにくいみたいだ。ここの静かな寂しい時間が好きなのに。

ダーラ・マカナルティ『自閉症のぼくは書くことで息をする 14歳、ナチュラリストの日記』p62

自由。


今のぼくは、自由なんだろうか。


ぼくの人生は、残念ながら、「ときどき」どころじゃなく、「密集」していたように思う。


ぼくの首も、心臓も、圧迫して。


昨日、友人達と話していて、「密集」していたころのことを(それはもう、とてつもなくあるんだけど、その中のほんの一部を)話した。


いろいろ省いて、少し、笑い話にしたりした。笑い話にできる自分がいることに、驚いた。


笑い話にして、ごめんなさい。あのころのぼくに、合わせる顔がない。


笑ってごまかしては、いけないな。これも、自傷の一つなのかな。


それは、まあ、いいとして。


昨日は、その友人達に、わざわざ会いに行った。


「わざわざ」と言ったのは、バスも電車も使って、1時間以上かかって、そこへ辿り着いたから。


出来立てのアイスコーヒーを、ガラス瓶に詰めて。氷とか、あとアクエリアスも、クーラーボックスに入れて。


彼らが営業予定のコーヒースタンドが、そろそろ出来るらしいので、差し入れのつもりだった。


忙しくなさそうな時間帯目がけて訪ねたからか、歓迎してもらえた。(今まで歓迎されなかったことはないんだけど。)


互いの昔話をしつつ、スイカをご馳走になったりした。


ぼくも、「静かな寂しい時間が」好きだ。


自宅で、一人で静かに過ごすとき、とても幸せになる。


だから、人に会いに行くのは、ぼくにとって、「不自由」になる行為ではあるんだと思う。


苦しくなることもあるのは、わかっているのに。どうして、人に会ってしまうのかな。


何なら、人に会うこと前提の珈琲屋を、始めてしまったし。


ぼくは、珈琲屋を始めたことで、自ら「不自由」になってしまったのかな。


一人でいることが「自由」なら、きっとそうなんだろうけど。


友人達は、アイスコーヒーをたいそう喜んでくれた。あと、アクエリアスも。いい人達だ。


ぼくにはまだ、わからないことが、たくさんある。


そのほとんどが(もしくは、すべてが)わからないままな気もする。


でも、少しでもわかりたくもある。


だから、もの書きをしたり、珈琲を淹れたりしているんだと思う。


ぼくが、ぼくを知るために。


今はもう、ぼくがぼくであることを、唾棄する人はいない。


だから、もっと奥まで、深くまで、歩いてみたいと思う。


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