「不自由」は、時々心地いい
自由。
今のぼくは、自由なんだろうか。
ぼくの人生は、残念ながら、「ときどき」どころじゃなく、「密集」していたように思う。
ぼくの首も、心臓も、圧迫して。
昨日、友人達と話していて、「密集」していたころのことを(それはもう、とてつもなくあるんだけど、その中のほんの一部を)話した。
いろいろ省いて、少し、笑い話にしたりした。笑い話にできる自分がいることに、驚いた。
笑い話にして、ごめんなさい。あのころのぼくに、合わせる顔がない。
笑ってごまかしては、いけないな。これも、自傷の一つなのかな。
それは、まあ、いいとして。
昨日は、その友人達に、わざわざ会いに行った。
「わざわざ」と言ったのは、バスも電車も使って、1時間以上かかって、そこへ辿り着いたから。
出来立てのアイスコーヒーを、ガラス瓶に詰めて。氷とか、あとアクエリアスも、クーラーボックスに入れて。
彼らが営業予定のコーヒースタンドが、そろそろ出来るらしいので、差し入れのつもりだった。
忙しくなさそうな時間帯目がけて訪ねたからか、歓迎してもらえた。(今まで歓迎されなかったことはないんだけど。)
互いの昔話をしつつ、スイカをご馳走になったりした。
ぼくも、「静かな寂しい時間が」好きだ。
自宅で、一人で静かに過ごすとき、とても幸せになる。
だから、人に会いに行くのは、ぼくにとって、「不自由」になる行為ではあるんだと思う。
苦しくなることもあるのは、わかっているのに。どうして、人に会ってしまうのかな。
何なら、人に会うこと前提の珈琲屋を、始めてしまったし。
ぼくは、珈琲屋を始めたことで、自ら「不自由」になってしまったのかな。
一人でいることが「自由」なら、きっとそうなんだろうけど。
友人達は、アイスコーヒーをたいそう喜んでくれた。あと、アクエリアスも。いい人達だ。
ぼくにはまだ、わからないことが、たくさんある。
そのほとんどが(もしくは、すべてが)わからないままな気もする。
でも、少しでもわかりたくもある。
だから、もの書きをしたり、珈琲を淹れたりしているんだと思う。
ぼくが、ぼくを知るために。
今はもう、ぼくがぼくであることを、唾棄する人はいない。
だから、もっと奥まで、深くまで、歩いてみたいと思う。
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