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especially nothing(日記代わりの掌編)

たぶん、スーパーでもコンビニでも、そうそういない。子どもなら、ありえることだけど。10円の風船ガムを、1コだけ買った。ちなみに、スーパーで。


セルフレジが混んでいたので、有人レジで精算した。名札に「研修中」と書いてある、自分より年下の店員は、不審顔を隠せていなかった。法律的には、なにも問題はないので、10円渡してそのまま帰った。


違う。うちには帰らなかった。風船ガムは、ハズレだった。いずこへ。


風船ガムは、チューインガムよりずっとふくれているので、噛むにはずいぶん顎を使う。と思うのは、普段よほど顎を使っていないからだ。「よほど顎を使う」機会なんてものは、日常で思い付かないけど。


ガムをふくらませるのは、苦手だ。子どものときは。今はわからない。する気になれない。ふくらませたくて、風船ガムを選んだわけじゃない。ついでに、風船ガムのためにスーパーへ行ったわけじゃない。


夕飯だったか昼飯だったか、ごくごく一般的な買い物をする予定だった。のだけど、エコバッグには、ガムの包装紙が放り込んであるだけ。なんで?


イチゴのようで、イチゴじゃない。甘味料だとはっきりわかる味が、口いっぱいに広がる。どころか、詰め込まれている気分。


そうだった。ふくらませるどころか、そもそも口に入れるのが好きじゃなかったんだ。僕は。でも、貧乏性なので、まだ味のするそれを、銀紙に吐き出す気にはなれない。


「お兄さん、どちらへ?」


と、風船売りに話しかけられた。


風船売り?


「そこ。そこ。あなた。風船のお兄さん」


風船のお兄さんは、あんたの方だろう。とは口に出さないけど、指名されたので、とりあえず止まる。カタコトのくせに、イントネーションは完璧だった。


「風船のお兄さん。ちょっと代わってくれませんか」

「何を?」

「仕事を」

「風船売りの? ああ、お手洗い?」

「違います。ちょっと。代わってください。ちょっと」


風船売りは僕に有無を言わせず(僕もガムに邪魔されて反論できない)、風船の持ち手の紐を握らせると、どこかへ走っていってしまった。わけのわからない僕は、呆然として、いくつもの風船を片手に従えていた。


10分。30分。1時間。風船売りは帰ってこない。せめて、ガムを口から出しておこうと思ったけど、エコバッグは空になっていた。銀紙も包装紙もない。


「風船……」


夕方になっても、風船売りは帰ってこなかった。あと、客も1人も寄ってこなかった。僕は、靴の爪先にガムを吐き捨てた。それから、持ち手の紐をすべて、エコバッグの持ち手に括り付けた。ようやく、どこかへ行ける気がした。

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