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太宰治とぼく。

太宰治の処女作『晩年』を、ちまちま読んでいる。処女作なのに『晩年』。なんてまぎらわしいタイトル。でも、蓋を開けてみれば、初期の作品であることがよくわかる……いや、根っこのところは後期でも変わってないな。まあ、いいか。


小説に限らず、本を読んでいて、共感できる一節を見つけると、安心する。特に、それを感じていたのが自分だけだと思い込んでいたことだと、余計に。けれど、ぼくの場合、太宰治は例外だ。「わかる……わかるぞ」と首を縦に振る反面、「なんか嫌だ」と辟易してしまうこの気持ち。


「当時の作家は、大体ろくでもないですよ」と、すぱんと言われた昨日。古本屋の店長に。理由は、金銭関係は親に頼りきってうんぬん(うろ覚え)。


それは、ぼくも知っている。いわゆる、高等遊民という奴だ。実家が金持ちで、大人になっても定職に就かなかった人間は、当時珍しくなかった。(夏目漱石の『それから』とか、あと江戸川乱歩の明智小五郎もそうだったような。小説にもよく登場した。)


それはさておき。ろくでもない作家のろくでもない書簡集が読みたくなったので、昨日は件の古本屋を訪れたのだった。(棚にあることは、何度も訪れているので知っていた。)角川文庫の『愛と苦悩の手紙』。


先日、『晩年』を買ったばかりのせいか、会計のときに話しかけられた。「遂に、これに手を出しましたか……」そんな、劇物みたいな。まあ、書簡集自体は、以前から気になっていたけど。


「これを読むと、太宰のイメージが悪くなりますよ」

「いや、元から良いイメージないですよ」

「じゃあ、もっと悪くなりますよ」


まあ、そんなに。期待してしまうじゃないの。見ようによってはだいぶ失礼な会話をしつつ(太宰治なのでセーフです)コーヒーを頼んで席に着いた。その日は、先客が2人くらいいて、1人はぼくが来たときから黙々と読み進めていた。同世代くらいに見える。思わず、ぼくも黙々と読む。


古本らしいくったりした頁を慎重にめくりながら、予想を裏切らないろくでもなさに、内心でいくらかツッコみながら楽しんだ。太宰に限らないけど、近代作家は現代でSNSやらせたら炎上しそうだな。と、想像するのもまた一興。


なんだかんだ言いつつ、ぼくは太宰が好きかもしれない。小説だけじゃなく、書簡集まで買って。「こんな風になりたい」とは一切思わないけど。たぶん、太宰じゃなくて、太宰の書いたものが好きなんだ。うん。そういうことにしておこう。

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