黒くて、怖くない人。
19時を回ったところだった。
一通り家事を終えて、畳の上で横になって、Kindle端末を起動させたとき。
後ろの方で、床が軋む音がした。
よくある、ただの家鳴りだ。が、昨日、長編の怪談を読み終えたせいか、思考がそちらへ引っ張られた。
ぼくは横になったまま、ふり向かない。爪先のすぐ近くで、誰かが立っている。のが、脳裏に浮かぶ。気配がするのは、思考のせいか、それとも。
その人は、真っ黒で、輪郭もぼんやりしているけど、人の形をしている。背は高い。けれど、天井につくほど、つまり、常識はずれの背丈はしていない。
ぼくをじっと見下ろしている。他には、なにもしてこない。
「いる?」
ぼくは、声に出さずに訊く。
「いる」
返答がある。これも、実際に声が聞こえたわけではなく。それなりに身長があるからか、ぼくは男の人の声質を想起する。
それ以上、なにを言えばいいのかわからないぼくは、
「足は引っ張らないで」
と言った。
返答はなかった。
ぼくは、恐ろしいような、でも、いてくれて安心するような、相反する妙な気持ちになっていた。
ぼくはしばらく、Kindle端末を操作して、けれどなにを読む気にもならず、画面のぼんやりした灯りを見ている。誰かは、ぼくをじっと見下ろしている。
それから、何分も経っていなかったと思う。
ふいに、自分でも感じているのかいないのか曖昧な気配が、ふっと軽くなるのがわかった。
ぼくが、頭の中で見えたのは、誰かが踵を返して、玄関の方へ歩いていく姿だった。今度は、床はまったく軋まない。
「もういいの?」
思わず、けれど声には出さず、ぼくは訊いていた。
聞こえているのかいないのか、誰かは、玄関のすぐそばのトイレへ、音もなく入っていった。と、思う。そこで、気配は完全に消えた。
同時に、ずっと感じていた怖れも安心もなくなった。ぼくは、少しだけ寂しい思いがした。
でも、たぶん、それでよかったのだ。隅から隅まで妄想だったとは思うけど。妄想は妄想で、行き過ぎてしまえば、きっとよくないことが起こるだろう。定義できないものを前にしたときは、引き際というものがある。
けれど。目で確かめることのなかった誰かについて、ぼくは感じたままに記した。「そうするべき」「そう言うべき」を肌で感じ、実行した。
これは、なんというのだろう。
ぼくは、おかしいのだろう?
この記事が参加している募集
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。 「サポートしたい」と思っていただけたら、うれしいです。 いただいたサポートは、サンプルロースター(焙煎機)の購入資金に充てる予定です。