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少しずつ、ぼくは違っていく

手から、コーヒーの匂いがする。


淹れる前も後も、手は洗ったし、帰ってからシャワーも浴びた。


でも、すぐに取れるものじゃないらしい。


本当に、ぼくにしかわからないくらいだけど。

――匂い、する?

――する。

――やっぱり、そうなんだ。

――でも、私だからかもしれない。

――?

――私は、きみの中にいるようなものだから。

そう言って、アルネは肩をすくめた。


ぼくにしか見えない、ぼくだけの女の子。

――そっか。そういうものかな。

――匂いが染みつくほど、コーヒーを淹れたの?

――たくさん、とても、大量に……では、なかったよ。でも、1日に1、2杯しか淹れたことのないぼくにとっては、たくさん、かな。

――楽しかった?

――うん。もちろん、緊張したけど。まったく知らない人にコーヒーを淹れるのも、はじめてだったから。会話も苦手なのに。

――でも、ひどい顔はしていないわ。

――ひどい職場にいたころみたいな? そりゃまあ、あのころとは、全然違うよ。……うん、楽しかった。

――淹れてくれる? 私にも。

――もちろん。

豆を挽いて、ドリッパーの中で粉をならして。


湯を沸かして、ドリップして。


珈琲屋として、新しく始まったぼく。


手順の一つ一つが、厳かな儀式のようにも思う。


祈りのような。

――はい、どうぞ。

――ありがとう。これは、珈琲屋さんが淹れたの?

――んん……。いつも通り、淹れたかなあ。いつもの朝、きみに淹れるぼくが。

――珈琲屋のきみと、目の前にいるきみ。なにか違うのかしら。

――どっちもぼくだからなあ。まったく違うなんてことは、ないだろうけど。でも、きっとどこかが、違うんだろうな。だから、珈琲屋になったのかもしれない。

――いつものきみと、違うきみがいるから。

――うん。はっきりとは、言えないけど。ぼくにも、わからないから。

――コーヒーをすすっているきみと、もの書きのきみと、

――珈琲屋のぼく。全部同じで、少しずつ違う。なんか、変な気持ちだ。

――よかった。

――?

――疲れているけど、ずっとずっと、いい顔をしているから。

――本当?

――ええ。

――それは、なによりうれしいかもしれないな。

――ふふ。せっかくだから、もう1杯もらえる?

――もちろん。

これからのぼくは、なにかが変わるかもしれない。


変わらないかもしれない。


でも、珈琲屋になって、すでに変わったものは、きっとある。


それが、なにかはわからないけど。


きっと、ぼくをいい方へ、導いてくれる気がした。

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