「そのままのぼく」では、祝福されない
『生誕についてくだくだしい議論をする』のは、たぶんぼくも、していたと思う。
していた、と言っても、議論するのはぼくとぼくで、だから、ただの自問自答だったのだけど。
どうして、生まれたんだろう。
もしくは、
どうして、生まれてしまったんだろう。
だれもが、一度は考えたことがあるとは、思うけど。
(考えたことのない人は、きっと、ずいぶん、幸せなんだろう。)
その問いに、答えがないことも。
あるいは、生まれたことに、意味はないのだと。
聞き覚えのある台詞しか、思い付かない。
むかしむかし。
ぼくは、そのままのぼくで生きることが、一番喜ばれると思っていた。
ぼくを生んだ人達に。
けれど、それは本当じゃなかった。
ぼくを生んだ人達は、ぼくを生んだ人達が理想とする生き方から、少しでも外れれば、「頭のおかしい」「みっともない」「変な」人間なのだった。それが、ぼくだった。
(「」で強調しているのは、ぼくが実際に言われてきた台詞だ。何度も、何度も。)
あれから、ぼくは、
「鬱病」とか、
「発達障害」とか、
「性別違和」とか、
いろんなレッテルが貼られているのに気付いた。
ぼくを生んだ人達は、それに気付いていたのか、それとも、見て見ぬふりをしていたのか。
発覚すればするほど、ぼくという人間が「まとも」になるように、躍起になった。
ぼくは、この人達の子どもなのか、人形なのか、わからなくなった。
無条件で愛されているのは、子どもじゃなく、親の方なのだと、誰が言ったんだっけ。
ぼく自身が貼った覚えのないレッテルで、ぼくは分類されている。
世の中には、ぼくのような人間は、いなくなった方がいいと、排除したがる人もいる。
じゃあ、命は平等に扱われているなんて、ウソだね。
ぼくは、LGBTQ(合ってる?)の人達を保護しよう、という考え方が嫌い。
もちろん、もれなくぼくも、その中に入っているんだけど。
だって、それって、保護したがる人達は、保護したい人達を、同じ人間扱いしていないんでしょう?
そうじゃなかったら、「同じ人間なんだよ」なんて、わざわざ言えないもの。
ただ、「同じ人間」として、接してほしいだけなのに。
嫌だな。
嫌だなあ。
どうして、生まれたんだろう。
どうして、生まれてしまったんだろう。
そんなの、知らない。
知らない、から。
ぼくは結局、ぼくという人間のまま、生きている。
「理想の人間」には、なれないまま。
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