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「そのままのぼく」では、祝福されない

生誕についてくだくだしい議論をするのは、精神錯乱の域にまで昂進した、解決不能のものへの嗜好にほかならない。

E.M.シオラン『生誕の災厄 新装版』p30より

『生誕についてくだくだしい議論をする』のは、たぶんぼくも、していたと思う。


していた、と言っても、議論するのはぼくとぼくで、だから、ただの自問自答だったのだけど。


どうして、生まれたんだろう。


もしくは、


どうして、生まれてしまったんだろう。


だれもが、一度は考えたことがあるとは、思うけど。


(考えたことのない人は、きっと、ずいぶん、幸せなんだろう。)


その問いに、答えがないことも。


あるいは、生まれたことに、意味はないのだと。


聞き覚えのある台詞しか、思い付かない。


むかしむかし。


ぼくは、そのままのぼくで生きることが、一番喜ばれると思っていた。


ぼくを生んだ人達に。


けれど、それは本当じゃなかった。


ぼくを生んだ人達は、ぼくを生んだ人達が理想とする生き方から、少しでも外れれば、「頭のおかしい」「みっともない」「変な」人間なのだった。それが、ぼくだった。


(「」で強調しているのは、ぼくが実際に言われてきた台詞だ。何度も、何度も。)


あれから、ぼくは、


「鬱病」とか、


「発達障害」とか、


「性別違和」とか、


いろんなレッテルが貼られているのに気付いた。


ぼくを生んだ人達は、それに気付いていたのか、それとも、見て見ぬふりをしていたのか。


発覚すればするほど、ぼくという人間が「まとも」になるように、躍起になった。


ぼくは、この人達の子どもなのか、人形なのか、わからなくなった。


無条件で愛されているのは、子どもじゃなく、親の方なのだと、誰が言ったんだっけ。


ぼく自身が貼った覚えのないレッテルで、ぼくは分類されている。


世の中には、ぼくのような人間は、いなくなった方がいいと、排除したがる人もいる。


じゃあ、命は平等に扱われているなんて、ウソだね。


ぼくは、LGBTQ(合ってる?)の人達を保護しよう、という考え方が嫌い。


もちろん、もれなくぼくも、その中に入っているんだけど。


だって、それって、保護したがる人達は、保護したい人達を、同じ人間扱いしていないんでしょう?


そうじゃなかったら、「同じ人間なんだよ」なんて、わざわざ言えないもの。


ただ、「同じ人間」として、接してほしいだけなのに。


嫌だな。


嫌だなあ。


どうして、生まれたんだろう。


どうして、生まれてしまったんだろう。


そんなの、知らない。


知らない、から。


ぼくは結局、ぼくという人間のまま、生きている。


「理想の人間」には、なれないまま。

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