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生きづらくってしょうがねえ

シチューに、じゃがいもを入れ忘れた。あったのだけど、忘れていた。


ほんの些細なこと。

「どっちが本名なの?」

「どっち……って。ああ」

ぼくのSNSのプロフィールには、アカウント名である「相地」と、公募用のペンネーム「八ヶ崎薫」の、二つの名前。

「どっちも違いますよ」

「え、じゃあ本名は?」

シチューのルーを溶かしていると、ふと、肩がひどくこわばっているのに気付いた。


四六時中肩こりしているとはいえ、なんというか、尋常じゃないこり。


それは、だから、緊張していたということで。

ぼくは、本名を口にするのをしぶった。

でも、その場の空気で、ぽろっと言ってしまった。

「アカウント名とは、全然違いますよ」とか、そんなことを付け足して。

それで、この話題を終わりにしたかった。

軽く流して、それきりにしたかった。

ぼくが本名を嫌っていることは、この人達に関係ない。

ぼくは、うずくまっていた。台所で。


食欲が、急激に失せていくのがわかった。


なにもかもどうでもよかった。


叫んでしまいたかった。


手をかきむしりたかった。


どれもできなかった。

「パートナーさんは、さすがに本名で呼んでるでしょ?」

「呼んでないです。呼ばせませんよ」

だんだん、「ぼく」が出てきているのがわかって。

どことなく、空気がささくれ立つのがわかった。

「義理のお父さんとお母さんは、本名で呼んでいますよ。もちろん。マスター、お会計をお願いします」

帰りのバスの時間が、近付いていたから。

それは本当だったけれど。

端から見れば、逃げたように見えただろうか。ぼくが、触れられたくないだろう話題に。

プライベート。


他人のそれは、ぼくにはどうでもよくて。


でも、そうじゃない人も、中にはいて。


面倒臭え。


と、大声で吐き捨てたかった。


壁の薄いアパートでは、それができない。


詮索するな。


ただの興味で。


気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。


パートナーが帰ってくるころには、ぼくはすっかり憔悴していた。


変わらず、食欲はなかった。それに、動けなかった。申し訳なかった。


なにか口に入れないと、より落ちていくのはわかっていた。パートナーに、シチューだけよそってもらった。具なしで。


気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。


ぼくが。


ぼく自身が。


なんで、口を滑らせてしまったんだ。なんで。


どうせ、向こうは気にしていないだろう。でも、ぼくは気にする。本名を口にした時点で。忌々しい、ぼくの本名。


しねばいいのに。ぼくが。


ぼくは、平和に終わる日が、少ない。


悲しい。

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