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プロセスにOKを感じられる場が自己認識に及ぼす影響について(メモ)

ありがたいことに
今は自分のプロセスにOKを感じられる場をもてている。
そうすると自然と、時折だが意識が今に向かって行く。

●心の問題とは
多くの心の中の問題が
うまくいっているか、いっていないかは

自分で自分の中にOKを感じることができるか、できないか、だと思う。
深いレベルでの自分という存在への肯定。

瞑想などをしているときや
よきと思えることをしているときはOKが出せる。

そうじゃないときも……
自分で自分にOKを出せれば、
自分に対してOKを感じることができれば
問題は問題じゃなくなる。

●無自覚な合意
誰がいい悪いなんて決めたんだ?
自分に対するいい悪いを誰かに決めさせていいのか?
違うと思いつつもそうなっちゃうのはなぜだ!?

人は自覚的にしろ、無自覚にしろ遠い昔から誰かの良い悪いに合意をしている。
合意をすることで認識している世界を作っている。
社会的な動物だから…とか生き物的なものなのかもしれない。

物心ついたときから、いやその前からも。
何かに注意を向けることや
言葉が使われることで
分離をしてきた。

「何かができなければいけない存在」に自らの定義を変えてしまった。

発達のプロセスの中で通らなければいけない道だったとしても
もうちょいやりようがあるような気もしちゃう。

そこから自由になっていくために、
もう一度、
自分を育んでいく。

●プロセスへのOKと母的な役割
自分のプロセスへのOKは母的な役割の人が身近にいたかどうかにも関わってくるはず。
そうでない時、体験レベルでやり方がわからないということが起こりえる。
欲求の満たし方がわからない。
間違った行動をし続けてしまう。
渇望し続ける失われた体験となる。(愛着)

ただ、自らが真にその行動に心地よさを感じているかどうかは
行動のバロメーターになるのではないかと考えている。

自分のプロセスにOKを出せる場にいられるかどうかは
自分を育んでいく上で大切な要素だ。

あと、この話は所属意識を感じるかどうかにも大きな影響を及ぼすのかもしれない。

ところで母的な役割の欠如は
社会的なものなのだろうなぁと思うことがある。

これは女性性、男性性ともに限定された役割ばかりが認められてきたことに起因すると思われる。

●自己認識
人は周囲の人(触れた情報)を通して、自らがどういう存在かを認識するクセがある。
自分のことが例えば視覚的に認識できないからとかも関係あるのかなぁ。
周囲を通して自分を見る。周囲が鏡。場が鏡
一緒にいる人によって自己認識が変わる。
集合意識の影響も。家族のテーマも引き継ぐ。(地域とかもっと大きい単位のコミュニティのテーマもありそう)

●ぐちゃぐちゃだけど一旦まとめる
場に対して信頼が生まれたとき、
例えばプロセスにOKが出ている場だと認識したときに、
対外的な自我が外れて、緊張がゆるみ
起きていることを起きていることとして認識しやすくなるのかもしれない。
そして本来の力が発揮しやすくなる。

そこで起きた場の体験が自己の変容へと繋がり
ひいては起こることへの信頼へと繋がっていくのではないか(にわとり・たまごの関係でもある)

ところでオノ・ヨーコが天井に小さく「YES」と書いてたエピソードを読んだことがある。なんか、そういうことなのかも。

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