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言葉がわからないと言っていいのだと知った

ドイツに住んで半年、恋人の友人と食事をすることが増えてきた。

以前は韓国に住んでみたり、いまはこうしてドイツに住んだり、海外にいると英語が話せると思われることが多いけれど、私は英語が話せない。

英語で会話が進むとき、私は表情を崩さずにその場にいることだけに徹する。まったくわからないわけではないので、話がわかる時には相槌を打ちながら、わからない時にはもうただ相槌に徹する。

その時の私は、その場の雰囲気を崩さないことだけが目的。恋人が友人と楽しく話せていたらそれでいい。

そう思っていたけれど、そう思わなくていいのだと知ったのが昨日だった。


恋人の友人との食事


日本にいたらそんな機会は多くなかったけれど、ドイツこちらに住むと増えるのが、恋人の友人と食事をするということ。

私はこの文化がどちらかといえば好きだ。

たとえば恋人に先約があっても、この文化のおかげで私も恋人と過ごせる。逆にいえば、こちらが先約だったとしても、恋人も友人との時間が持てる。

私はその場で、「恋人の友人と知り合えた」という感情を得る。承認のようで嬉しい。私はもともと人と知り合うことに抵抗が少ない。

だけど、唯一の問題がとても大きい。何かといえば、私が英語ができないこと。ベルリンにいると、たいていの人は英語ができるし、英語で話が進むことが多い。

英語を話せない私は、話をまったく理解できないわけでないにしても、蚊帳の外に出てしまったような気持ちになって寂しくなる。

英語で話されていることは、私に向けられた言葉ではないと受け取ってしまう私もいる。


言葉がわからないと言っていい


英語で話が進む時、特にいえばその場に日本語という選択肢がありながら英語が選択されて進む時、私は蚊帳の外に出てしまったような気持ちになる。

恋人は日本語ができるのだから、ちょっと気を遣って日本語で話してくれてもいいのに、なんて、拗ねた気持ちも現れたりする。私は何もしないのに。

そんなもやもやを抱えていた日の帰り、その日の食事をともにした友人がこう言ってくれた。

ずっと英語で話しちゃってごめんね。わからなかったら、わからないって言っていいよ。


そうか、なるほど、と思った。「言葉の私に気を遣ってよ」ではなくて、「いまってなんの話だったの?」と、私がいえばよかったんだ。

話がスムーズに進むように、私はその場の雰囲気を崩さないように、ただの置き物のようにならなくてもいいんだ。

その席に座っているということは、その場に混ざることを私は許されているわけなのだから、わからなかったらわからないって言えばいいのか。と。

初めて気づいたことだった。その考えは全くなかった。

言葉がわからないと言っていい。友人からすれば、何気ない言葉だったと思うけれど、私にはすごく大きな気づきだった。

言葉がわからない、いまの話ってなんだったの? と、これからは聞いてみようと思った。私が私のことを蔑ろにしないように。私もその場を楽しめるように。

7年半勤めた会社を30歳で辞め、好きな場所に住んで好きな仕事をする人生を作り直すと決めました。サポートいただいたお金は、退職後にお仕事にしているコーチングのスキル向上や、noteを書き続けるための生活に使用します🙇🏻これからも記事を通してみなさんと繋がれたら嬉しいです☺️