【ココロノマルシェ回答】自ら罪を犯してまで望んだことと、そこにあるふたつの物語とは?
こんにちは。
ライフストーリー インタビュアー/心理カウンセラーの 真中愛です。
今日は「ココロノマルシェ」に寄せられたお悩みに回答します。
さあやさんこんにちは、はじめまして。
「ココロノマルシェ」へのご相談ありがとうございます。
真中愛が回答させていただきますね。
まず、さあやさんにはココロノマルシェにご相談くださいましたことに心から感謝申し上げます。
ご自身の犯罪に関わるつらい過去を、匿名とはいえこのような場に公表されるのはとても勇気の要ることだっただろうと思います。
私自身は暴力や犯罪とは無縁の環境で生きてきました。
その大前提があるからこそ、それらの存在意義や善と悪、生と死などということを自らの内面で身近に置くことが可能となり、日々思いをめぐらせることのできた半生でした。
今日は私なりの考えを、ご相談文から読み取ったふたつの物語を通してさあやさんにお伝えすることができればと思います。
幼いさあやさんは、両親の財布からお金を盗むことで自ら罪人になりに行ったのかもしれません。
それは、愛する両親を助けてあげるためだったのかもしれません。
さあやさんは子供らしくいることを許されないほど厳しく育てられたうえに、両親それぞれに殺されるかと思うほどの折檻(暴力)を受けました。
おそらく人の機微を敏感に察知することのできるさあやさんは、
『愛する両親は、自分の子どもを衝動的に殺しかねないほど罰することで(かりそめの)癒しを得るよりほかないくらいに、心に深い傷を負っている』
ということを、このときに感じ取ったのだと思います。
さあやさんは、彼らが癒しを得るために「正当な理由を持って罰する人」にしてあげたかった。
そのためには、「盗み」という罪を犯すことで「殺されそうになるほどの重罰を受けるに値する罪人」になることをも厭わなかった。
そうして、愛する両親を助けたい、という幼いさあやさんの強い思いが
『愛する人=私に重罰(暴力)を与える人であり、彼らを助けるためには重い罪を犯して罪人になる必要がある』
という概念を、自らの中に作り上げてしまったのではないかと思います。
さあやさんにとって「盗み」は、自らを罪人にすることで愛する人を助けてあげるための行為だった。
そしておそらく、「愛する人を助ける」というのはさあやさんの才能であり、人生の使命であり、存在意義にも関わるほどのものだった。
だからこそ大人になってからもレジのお金を盗んだり、万引きをしたりして「罪人であり続ける」ことをやめられなかったのではないだろうか。
そんなふうに私は感じました。
一方で、幼いさあやさんはきっと、お父さんとお母さんに自分のことを助けてほしかったのだとも思います。
「お父さん、お母さん、私を見て!
苦しむ私に気づいてもらうために、子どもらしく愛を与えてもらうために、罪まで犯さなければならないほどの私を助けて!」
「盗み」は、そこまで追い詰めらたさあやさんのSOSだったのではないかと、私は思うのです。
(SOSという意味では、過食嘔吐もこれに当たると思います)
ところが結果的にその罪は、両親を助けるための材料となりました。
両者(さあやさんと両親)がお互いに助けを乞う中で、両親に対する愛の深さ、「愛する人を助ける」という使命感の強さ、そして人間としての器がより大きかったさあやさんが助ける側になったと言えるかもしれません。
さあやさんは罪人であり続けながら、きっとその後も元夫をはじめたくさんの愛する人を助けてきたのだと思います。
そしてもし、「盗み」が「私を助けて!」というSOSでもあったとするならば、
「愛する人を助けたい」
「愛する人に助けてほしい」
そこにはさあやさんにとっての根源的なふたつの願いがあったことになります。
「盗み」が社会的には絶対悪であることはさあやさんも重々分かっていました。
しかし、自らの生きる使命や存在意義に関わるほどの願いを前に、内面での激しい葛藤(に伴う過食嘔吐)を抱えながらも、さあやさんは盗みや万引きを繰り返し、罪人であり続けるよりほかなかったのかもしれません。
ではどうして、さあやさんは盗みや過食嘔吐を止め、「罪人であり続ける」ことを脱することができたのでしょうか。
ご相談文を読んでいて、私が疑問を感じたことがひとつあります。
もしかしたらそれがさあやさんの持つ別の才能につながるものであり、もうひとつの人生の物語なのかもしれない。
ここからは、私がそう感じたことを伝えさせていただきますね。
私が疑問に思ったこと、それは
さあやさんは、子どもを持つことに怖れやためらいはなかったのだろうか?
ということです。
一般的に言えば、さあやさんのようなあまりにも過酷な家庭環境で育つと、自分が子どもを持つこと、母親になることに対してものすごく大きな怖れや抵抗が出てくる場合が少なくありません。
子どもを持ったとしても、自分の両親と同じことを繰り返してしまうことで苦しむケースも多くみられます。
しかし、文面から私が推測する限りで話を進めることになってしまうのですが、おそらくさあやさんは子どもを産むことに対する怖れや疑問やためらいといったことはほとんどなかったのではないか、という印象を持ちました。
同様に、現在お子さんとのことで深く悩んでいるというかんじも受けませんでした。
もともとさあやさんの根底には、「親子愛」に対する絶対的な信頼があるのではないだろうか。
自分の愛は両親に届くという確信があったからこそ、自ら罪人になってまで彼らを助けようとした。
自分が産んだ子どもとの間は親子愛で結ばれるのだから、自分と両親との間柄がどんなものであろうとも、そこにはまったく関係ない。
そして両親との関係において、私はベストを尽くした。
潜在的にそのような感覚があったから、子どもを持つことに躊躇がなかったのではないか。
そしてこの「親子愛の才能」こそが、さあやさん自身を、それだけでなく旦那さまやお子さんを救ってきたのではないだろうか。
そんなふうに私は思いました。
両親に引き続いて元夫を助けるために、さあやさんは罪人であり続けました。
しかし彼の暴力が子どもに向いたとき、さあやさんは彼と決別する道を選ぶことができました。
このことはもちろん、さあやさんの親子愛がお子さんを救ったと言えます。
同時に、お子さんの存在がさあやさんに
「罪人であることで、愛する人を助ける」
ことをやめさせてくれた、とも言えるのではないでしょうか。
また、旦那さまとの間にもお子さんをもうけ、しばらく後に万引きと過食嘔吐がピタッと止まりました。
この間には、「私(親)でいるだけで、愛する人(子)から愛される」という体験があったのだと思います。
それは、さあやさんがお子さんにたくさんの愛を注がなければ決して得られないものです。
お子さんと愛し愛され、癒しを得ることで、さあやさんは
「罪人であることで、愛する人に助けを求める」
ことを、手放すことができたのかもしれません。
そんな「親子愛」という才能があったからこそ、さあやさんは今いる場所にたどり着くことができたのかもしれませんね。
そしてそこに旦那さまが無関係であるはずはありません。
旦那さまについてはあまり触れられていないのでこちらも憶測になってしまうのですが、さあやさんの持つ親子愛の才能は、やはり自らの親子関係において何かしらの心の傷を負っていたであろう旦那さまを癒し、救うことになったのではないかと私は考えています。
夫婦というのは、一方が一方に与えっぱなしということはあり得ません。
さあやさんは、優しい旦那さまにただ救われてきただけではありません。
旦那さまとさあやさん、そしてお子さんはずっと、お互いに救い救われ、癒し癒されてきた間柄であり、過去においても今もこれからも、まったく対等な立場です。
「夫や子どもに救われただけでなく、私も夫と子どもを救ってきた」
それを受け取ることが、さあやさんがご自身の癒しをさらに進めるとともに、これからまた新しい人生のステージに進んでゆくための第一歩ではないかと、私は感じています。
そしてこの対等性を受け取ることこそが、相手の愛を受け取ることにつながってゆくのです。
さあやさんの新しい人生のステージ、ということについては、こちらから紐解いてみようと思います。
お子さんや旦那さまと救い救われながら関係を育み、罪人であり続けることを脱した今、さあやさんの周りには「私に重罰(暴力)を与える人」がいなくなりました。
それは穏やかな環境を手に入れることができた一方で、「愛する人=私に重罰(暴力)を与える人」という概念を持っていたさあやさんにとっては、私は誰も助けられていない、という無力感を生むことになったのかもしれません。
「私は、愛する人(=私に重罰を与える人)を助けるという使命を終えたのではないか?」
「愛する人を助けていないのならば、私の存在意義、生きている意味はないのでは?」
潜在的にそのように感じたさあやさんは、「死んでもいいかなぁ」という思いをぼんやり抱くに至ったのではないかと、私は思いました。
根本さんのブログと出会ったことにより、過去の概念の残骸が自分の中にまだ残っていることを確認できたとも言えるのかもしれません。
だとすれば、今、さあやさんがかつて持っていた「愛する人=私に重罰を与える人」の概念を、ほんとうに書き替えるときがきているのではないでしょうか。
さあやさんはすでに、罪人であることで愛する人を助けることをやめられました。
罪を犯すことで愛する人に助けを求めることも、手放すことができました。
愛することにも愛されることにも、もう「罪」は必要ありません。
人生の道のりの中で最もつらいところを、さあやさんはもう抜けられたのだと思います。
今の穏やかな自分、穏やかな環境にたどり着くことができたのは、さあやさんが持つ「愛する人を助ける」「親子愛」をはじめとした豊かな愛と才能で、両親や元夫をはじめとしたたくさんの人を救い、お子さんや旦那さまを癒してきたからです。
その真実を、ぜひ堂々と受け取ってください。
そして、今の私にとって「愛する人」とはどんな人だろう?
それを自分自身に問いかけてみてください。
さあやさんのとなりにいる、旦那さまやお子さんたち。
過去に罪を犯したことも今もまだ罪悪感を抱えていることも自分が与えてきたことを受け取り切れないこともなにひとつ関係なく、今のさあやさんがたださあやさんでいるだけで、すべてを受け入れ、愛してくれているのではないでしょうか?
それがさあやさんの「愛する人」ではないでしょうか。
さあやさんが、「与えてきた」という真実と自分の豊かな才能を受け取ってゆくにつれて、「愛する人」の概念を喜びと確信を持って書き替えてゆくにつれて、与えて受け取る、愛の循環の喜びを生きる「新しい人生のステージ」へとどんどん近づいていきます。
そして、潜在的に「愛する人を助けられないのであれば、死んでもいいかなぁ」とまで思うような、豊かすぎるほど豊かな愛とエネルギーを持つさあやさん。
まだまだ眠っているであろう才能がこれから次々と花開き、輝きを増し、使命を生きるエネルギーがさあやさんの内面深くからどんどん湧いてくることは間違いありません。
「罪」という重い重い荷物から解き放たれたさあやさんのこれからの人生。
それは、愛する人をはじめとした多くの人とその豊かな愛を与え合い、使命を生きる喜びに満ちたものになってゆくに違いないと、私は確信しています。
そんなさあやさんの姿を応援しつつ、力をもらいつつ、私もさあやさんとともに使命を生きる人生を進んでいきたいと思います。
お読みいただきありがとうございました!
■真中 愛【ライフストーリー インタビュー/カウンセリング】
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