aiiroのこと 1
いつか書くことが途切れてしまいそうで怖い
ホントは毎日書きたいのに
世の中では自分のことを整理して、迷ったっときの混沌とした自分から”健康な”自分を再構築する時間を無駄だとか、ぼーっとしているだけだとか、生産性がないという。それがないと何もできないのに。
自分なんて迷ってばっかり
それでもこの世界で生きていられる理由は、そういう時間があるから。
時間の流れなんか気にしなくてよくて、なだらかな時間経過を感じながら物思いにふけることができる。そういう世界のおかげ。
なのに、なのに、中には時間割をしっかりつけて自分が今何をしているかしったらいいだの、時間通りに動けないとだめだとか言う人がいる
ニートさん達、いいから聞き飽きたから黙ってて
自分と向き合って、今の自分のこと書いて、しっかり何か定まったらいいな。でなくても、迷ったことには、何か価値があるはずだ。
いつもそう思っている。そう思ってnoteを書いている。だから、頭の中がぐじゃぐじゃの状態だから、文章が文章として読みにくい。誤字もある、脱字もある。話題転換も話の展開もなっていない。時々ら抜き言葉が入る。文法的に違う。方言が入って、読みにくくなる。
でもそれでいいとも思う。こう言ってしまうと多くの人から嫌な思いをされそうだが、現時点では人に見せるためには書いていない。自分の整理と発散のために書いている。それが誰かの道標に荷ったらいいな位。
直そうと読み返したこともある。文字という記号に注視していると、意味が入って来ない。つまらない。だから、読み返さなくなっていった。書いているときに思っていることと、読み返しの時の感受性は必ずしも同じでないし、似通っているとも保証されない。
感受性って言葉使ったからこれについてももう一つ。
感受性が強い人のことを世の中は「ナイーブ」だったっけ、繊細ですぐ傷ついて、要するに「取扱注意」として「ワレモノ注意」として扱う。はっきりと、今の自分はそう扱われるが側。客観的に。でも自分はそんなレッテルは要らない。勝手に自分が健常者だと思っている異常者(だいたい世の中異常者で溢れ返っている)が考えているだけ。確かに感受性が高いあまりに些細なことだ気になったり、傷付くこともある。でも、それと同じ位に小さな幸せを見つけられる。
道端の花然り、人のたった少しの気配り然り。
そういう人として今日も生きていくし、これを無理くり矯正しようとは思はない。こんな自分が好きだから。
今度いつか、スキって感覚とか、恋愛観的なものも書いてみようかな。
整ったから、やりたいこと、始めるね