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玉城ティナは夢想する

『女の子』という言葉は、時に呪いの意味を孕む。

「私もあの子みたいに可愛かったら...」誰もが一度は考えたことがあるのではないか。その呪文はじわじわと心を蝕み、そう易々と逃れられるものではない。

「可愛かったら人生もっと楽しいのに」「可愛かったらもっと愛されるのに」「可愛かったらもっと明るくなれるのに」etc

そしてふとした時、勝手に悲しくなる。「あの子と私は何が違うのだろう。」こんなふうに比べるべきじゃないのは、全部わかっているつもりなのに。

私が他の誰かに、憧れているあの子になることなんて一生叶わない夢なんだ。

一人の『女の子』が他の『女の子』へ抱く「羨望」は、結局のところ「絶望」しか生まない。

夢というのは実態のない「空虚」である。

憧れて、打ちひしがれて、虚しくなる。


今日はそんな私(たち)の傷を癒してくれるかもしれない、大好きな作品について話させてほしい。


作品の概要

『玉城ティナは夢想する』監督:山戸結希

本作は玉城ティナの写真集『渇望』の発売のためだけに、山戸監督が特別に書き下ろした脚本だ。

山戸監督はこの作品を作り終えた後、このように語っている。

玉城ティナという一人の少女の、
虚像と実像を行き来しながら、
ふかく内側に潜ってゆくことが、
心の底ふかくで繋がっている誰かに届くように。
彼女自身の十代の鎮魂歌として、あるいは全ての十代の鎮魂歌として響くように。
YouTube上・vivichannelに流され、留まる「玉城ティナは夢想する」が、
いつか枕をぬらす寂しい少女の夜に捧げられますように。

彼女の美しく神秘的な言葉は、一度作品を味わうと、途端に鋭い力を持って心の奥底を抉られてしまう。


作品の概要を説明しよう。

主人公の『A子』はどこにでもいる普通の大学生だ。彼女は熱烈に『玉城ティナ』に憧れている。



しかし『A子』を演じるのは、なぜか憧れの対象であるはずの『玉城ティナ』本人である。

これはかなり不思議な、あるいは少し皮肉めいた完全なる虚構の世界だ。

「メタフィクション」的であると言えるだろう。

”メタフィクションは、それが作り話であるということを意図的に(しばしば自己言及的に)読者に気付かせることで、虚構と現実の関係について問題を提示する。” ( 引用:Wikipedia)

開始早々、虚実入り混じる世界に引きずり込まれてしまう。

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冒頭でA子はこう語る。

「たとえば,もしも私が,そう,たとえば,玉城ティナだったなら,なんて,そんな無意なこと...」

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誰かに憧れたことがない人なんてこの世にいないと思う。

この冒頭のフレーズは、全ての人々の心と共鳴している気がして、ずっとずっと私の頭の中で鳴り響いて止まない。

構成

■ 1: 理想と現実の行き来
本作の主軸を一言で表すと『自己の理想像と現実の狭間で生じる葛藤』ではないかと、勝手に考えてたりした。


私たちが抱く完璧な夢想は、時に不健全な姿で露呈し、目の前の現実を哀しみで覆い尽くしてしまう。

「もしも私が玉城ティナなら、たった1つの悩みだってないだろう。そんなもの、見つけられない。完璧な肉体の女の子。」

夜な夜なA子は、自己の完璧な理想像を夢想し、終いには狭く暗い部屋でひとり涙を零すのだ。

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私(たち)はその姿に激しく共鳴し、静かに慰められる。
まるで温かな掌が頭を優しく撫でるように。


■ 2: サブリミナル的映像の揺さぶり
映像表現において特筆すべきは、サブリミナル的な技法だ。
虚実入り混じった世界を作り出すために効果的に使用されている。

作中でA子は何度も玉城ティナになりたいと夢想し、その度に彼女の理想を現実世界に具現化したシーンが断片的に挟み込まれる。

「あぁ,もしも私が玉城ティナだったなら,きっとこんな風にぐちゃぐちゃになることだって無いのに。」

▽夢想

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▽現実

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上記のような映像(画像)が1秒未満でパパパパと瞬間的に切り替わっていく。


『虚』と『実』を行き来する断片的な映像の畳み掛けは、人々が日常生活の中で時々見る”あの景色”に極めて近いのではないだろうか。


私は私以外の人間の現実を見ることができない。

従って少なくとも、”私はそのように感じた”という言及に留めておいた方が良いのかもしれない。


自分の振る舞いをリアルタイムでもう一人の自分が卑下したり、言葉を発しながら本当はそんなことを言いたいんじゃないのにと後悔する。

目の前に何度もよぎる完璧で理想的な自分の姿。

これはあまりにもリアルで、生々しい「現実」だ。


心打たれた言葉


全ての”少女”の苦しみを代弁した言葉が、本作では数多く登場する。


「いつか枕を濡らす寂しい少女の夜が救われるますように。」山戸監督の言葉が耳元で優しく囁いている。

もしも私が玉城ティナだったら・・・誰かと自分とを比べて、自分自身の存在を軽く感じることなんてないのに。

私は影の女の子。光の方を見上げてばかり。

後戻りできなく、A子は輝いてみたかった。

こんな肉体を脱ぎ捨てて、体の真芯に熱い灯火を宿す女の子になりたい。

光って、光って、光って、死にたい。・・・私は星になりたいのです。


隠された裏側の意図


■ 1: 玉城ティナの涙

本作を作るにあたって、こんな制作秘話がある。

山戸監督:私が何気なくティナちゃんに「ティナちゃんに憧れてる女の子たちはどんな気持ちなんだろうね?」と言ったら、彼女は突然嗚咽し始めたんです。

私たちはついつい憧れの対象を神格化し、羨望の眼差しで見つめてしまう。

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常に固定化された完璧な”イメージ”を保持し続け、彼女らが日々変化する生身の肉体であることは、忘れてしまっている。

当たり前かもしれないが、羨望の対象とされる人間にも強烈な葛藤が潜んでいるらしい。

”それ”は一体どのようなものか。果たして私たちは理解することができるのだろうか。

否、人は他人の心情を100%理解することは決して出来ない。ましてや自分と離れた境遇にいる人なら尚更だ。


■ 2: 憧れの対象に潜む絶望
私たちは羨望の先に潜む絶望さえも、ただ羨ましそうに眺めることしか出来ない。「容姿が良ければ人生うまくいく」とか言ってみたりするし、美人すぎるが故の悩みなんて、正直なところ自慢にしか聞こえない。

彼女らの人生の内側に入り込むなんて、絶対に叶わないのだ。

だからこそ羨望は羨望のままで、そして、彼女らが抱える絶望はいつまでも空虚の中に置いてけぼりである。



結び


想像することしかできない理想的な自分 / 憧れ / 虚像 / 敵わない夢 / 幻。
そんな捉え所のない混沌とした曖昧な世界を、鮮やかな手法で芸術に昇華している本作品は、幾多の人々の長く苦しい夜に、いつまでも寄り添い続けてくれる。


これからも私はどうしようもない夜に、この作品を訪ね歩き、”彼女”に優しく涙を拭ってもらい続けるのだろう。


追記


私がこの作品を何度も観てしまう理由は、誰かになりたくてもなれなかった自分を慰めているのか、可愛そうな自分に酔って涙を流したいだけなのか、逃れられない己の肉体を憎んでいるのか、それともただ夜の暗闇が怖いだけなのか。

突き詰めると無数の理由が掘り起こされてきて、なんだか自分が余計わからなくなってくる。


それでも人が作品を愛する理由はなんだって良いような気もするのだ。

例え作者の意図を逸脱していたとしても。

どうか自分勝手に、ただ愛させて欲しい。


この世界の誰もがないものねだりで自分勝手で、絶対に自分からは逃れられないことがわかっていて苦しくなる夜もある。

苦しみ、悩み、孤独、絶望、根本的に誰とも分かり合えないことがあり、誰もが寂しい。しかし根本的に誰もが分かり合えることもあるはずだ。孤独の理由は人それぞれだけれど、孤独の苦しみ自体は大体同じ気がする。そういうことって、この世の中にどれくらいあるのだろう。

同じ孤独を分け合える人に出会い続けたいが為に、私は生きているような気がする。


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