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2024年1月21日の気づき

オープニング

新年明けましておめでとうございますって書こうとしたら、もう1月も終盤に差し掛かっていて、月日の流れの早さをひしひしと感じている。今回は、先日(1月21日)東京へ行った際の気づきをまとめたものになる。ぜひ、最後まで見ていっていただけたら嬉しいです。


東京都写真美術館での気づき

※今回取り扱う展覧会は2つとも会期が終了していることをここで断っておきます

この美術館に行くことにしたきっかけは、耳で聴く美術館さんの投稿を観たこと。その投稿の中でも出てきた「孤独」というテーマが、今の自分にかなり刺さった。
その投稿のShorts動画は下記からどうぞ!

『見るまえに跳べ』を観て

この展覧会のメインポスター
(撮影者:自分)

この展覧会を見て強く感じた2つのことについてまずは書いていく。

  1. 「選択する」「選ぶ」ことの難しさと重要性を痛感した。

  2.  自分は今、「生きている」のか「生きられている」のかということを深く考えさせられた。

※「らる」という助動詞には受身以外に①可能②自発③尊敬、といった文法的な意味があるが、今回は受身の意味で使っていることを留意しておいてほしい。

〈1について〉
写真は、「いま」を写した作品であり、撮り手のタイミングで写された一種の「想い」や「コンセプト」が込められた作品でもある、と解釈できる。だから、写真の中に美術や芸術に詰められた「哲学」を見ることができると考えられる。
「撮り手のタイミング」という部分にも重なるが、そのタイミングを「選択する」ことの難しさが今回の展覧会に展示されている多大な作品の一つ一つに表れていることも感じ取れた。タイミングがズレてしまえばこのような色んな作品は生まれないことから、作品の哲学と作者の哲学とにズレが生じるのでは、と考えた。
このことは、各個人が彩る「人生」という作品についても同様のことが言えるのでは?という問いが生まれて、その作品の「意味」とは異なる部分はあれど、「哲学」や「想い」を求めて生きることは重要なアプローチだという一つの解釈を得た。

〈2について〉
「生きている」とは能動的・積極的・ポジティブな状態であり、「生きられている」とは受動的・消極的・ネガティブな状態であることは、広く受け入れられると思うが、今回は別解釈を提示する。「生きている」を楽観的な状態、「生きられている」を悲観的な状態とすることである。

※楽観的とは「思考を継続し意志をしっかりもてば、どんな困難なことでも解決可能だ」という状態で、悲観的とは「いまさら何をやっても手遅れだ」という状態である。

(参考文献:『レジリエンス人類史』P.415 26行目〜P.416 3行目)

今の自分は「生きられている」状態だと思う。【自分の意志で生きていける環境や能力が自分には備わってはいない】【自分の非力さを痛感させられる】といった悲観的な見方が脳内を占めることが度々ある。これからは、【自分には何ができるか?】【自分とは何者なのか?】といった問いに向き合えるポジティブな思考を持ち合わせるようになりたい。

ここからは、各ブースにおける振り返りを綴っていく。

淵上裕太さんや星玄人さんの“日常の背景をベースに非日常感が溢れている” 作品一つ一つに込められた想いから、そのような気持ちにさせられた。彼らの作品の中には、どこか見覚えのある風景の中にある人物や自然といった生きる力が強く生き抜こうとする意志が、「想い」として表現されていると、解釈している。その思いには強く感銘を受けた。

夢無子さんの『戦争だから、結婚しよう!』には、どこか「人間くささ」を感じた。欲や衝動のような強く心意気が表現されている部分が、その一因だとも考えている。※この場合の「人間くささ」はポジティブな意味で用いている。
また、ウクライナで戦火が飛び交っている中で生きている夢無子さんの日常も一つの世界だし、自分が今過ごしている日常も一つの世界だと思わされた。そこから、世界は「1つ」だという考えが広く受け入れられているけど、世界は「たくさんある」という考えがあってもいいのかな、と思わされた。

山上新平さんの作品は、展示空間が暗くなっていたこともあって、より作品一つ一つに没入できる空間になっていた。そしてその暗さのおかげで、自然や天然の色合い、彩りが持つ美しさが際立っていて、心惹かれる作品が多く観られた。
※その暗さは、意図的に照明の量を調整されていたブースの工夫だと思う。
ちなみに、この記事のサムネイルにしている写真も、彼の作品の一枚である。

うつゆみこさんの作品群には、色んな動植物が組み立てられている、混ぜ合わさっている作品が多く、見た目の色彩や要素の混沌さに強くびっくりさせられた。作品一つ一つが独立して展示されているスペースもあれば、色んな作品がまとまって一つの作品かのように展示されているスペースもあった。そのまとまった展示スペースには、作品そのもののインパクトもあってか多くの人が集まっていた。
また、その作品は写真撮影ができなかったが、今回の展覧会は、ほぼ全ての作品が撮影可能だった。なので、作者一人一人の概要のような説明文を撮ってみた。そこには細かい情報もあって、時々読み返しては楽しんでいる。

このように鑑賞後に言語化しているが、【「深い孤独」と向き合い、生きるための原動力の在処を示す】という『見るまえに跳べ』の展覧会の概要に書いてあるフレーズには感動させられたし、すごくこの展覧会にぴったりのフレーズだと思った。

『即興 ホンマタカシ』を観て


この展覧会のメインポスター
(撮影者:自分)

この展覧会には、所々に穴の中から数字や小物が展示されている小スペースや、「そういう組み合わせの一枚があるんだ!」や「そういう構図で生まれた面白い一枚だ!」といった建物が写し出されているスペースがあった。
個人的には、本当に多種多彩な富士山の作品群が展示されているスペースがお気に入り。富士山といえば「青」というイメージがあったが、そのスペースには「紅」や「黒」の富士山の作品もあって、観ていて非常に心躍った。
これらの作品群は、リアルな一枚に少しエッセンスを加えることで写し出される非日常感を愉しめる作品たちだった。
また、展示作品をさまざまな展示形式で魅せてくれているところから、「空間造」の工夫を強く感じられた。

最後に、今まで美術館や個展などで絵画はそれなりの数観てきたが、写真という形の芸術作品は今回が初めてというぐらい観てこなかった。そのおかげか、色々と新鮮な気持ちで楽しく観ることができた。次の展覧会の概要も知ることができたので、また行ってみようかなと思っている。


トビタテ文化祭での気づき

このイベントに参加することにしたきっかけは本当にちょっとしたことで、Instagramのストーリーズで流れてきたイベントに関する一枚を見て気になったから。その投稿にはNoteも添付されていて、「とても面白そう!」と思わせてくれる記事だった。下記に貼り付けておくので、よかったら見てみてください。

また、こういうイベントで人脈を広げておこうと思ったのもきっかけの一つになる。昨年も同じようなきっかけで色々なイベントに参加したから、今年はそこからもう少しステップアップできるようになりたい。こういったイベントに参加されている方々は色々な活動をされているから、収集されている・収集できている情報が自分よりも細かいし、より熱狂的でより面白そうなものだった。そういう高次的な情報の一部をたくさん得られてよかった。

気になったブースの振り返り

「いま、できること」という令和6年能登半島地震のボランティアに参加した方々が現状や、我々に今何ができるのかを報告し、参加者と意見共有できるブースがあった。そこでは、特定の地域にこだわらないコミュニティを持っておくと良さそうということ、動けるタイミングで直感的に動くことは大事だが、情報をしっかり収集してから動くのもそれ以上に大事であること、訪れる先における地元の方々と連携できるコミュニケーションを積極的にとっていくことの重要性、などに気付かされた。

このボランティアに参加した方の体験記事もありますので、よかったらこちらもご覧ください。

「モンテッソーリ教育の知識を提供する」ブースでは、ブース提供者とお話しさせてもらって、保育や子育てに関する悩みをカジュアルに話す機会をもっと増やしていく必要があるという現状に、半ば驚きながら納得させられた。そこからの推測で、その背景には〈わからないこと=タブー〉として触れてはいけない空気感のようなものがある、と考える。

おからを布教しているブースでも提供者の方とお話しさせてもらって、日本おける代替食の認知や流通の度合いがまだまだ低い現状について教えてもらった。そこから、健康や環境に対する問題意識の低さや、倫理観のような判断材料が必要な場面で持ち合わせていないように思われる人の多さといった、根本的かつ潜在的な問題ついても推測、共有した。
また、病気を患ったり、問題が深刻になったりしてから、問題解決に動く人が多いように感じる現状にも後々考えさせられた。そこには、自分の身体や身の回りの環境に関するアンテナの数が少なかったり、情報に鈍感になったりしているという背景があるのでは、と推測している。
そしてこういった問題の解決策を勝手に考えてみた。

  • 【倫理や道徳に関する練度や精度を上げたり、自分自身の美意識のような判断基準の明確さを向上させたりする努力・工夫をする】

  • 【自分たちでルールや取り決めを決める能力を身につける】

他にも何かあったらコメントしてください!

全体の振り返り

コミュニティ内の積極的な連携に驚かされた一方で、コミュニティの輪の外での個人間の繋がりが薄いところにも驚かされた。より具体的に言うと、特定のコミュニティ同士を繋げるハブのような存在がいる一方で、学生同士が繋がっているケースがそんなになかった、と言うこと。

ただ、「留学したい」と気持ちが芽生えても素直になれない自分がいた。ここから今後数年の人生設計に不安があることがわかった。時代のせいにしたい自分もいるし、自分の頑張りでなんとかなると思いたい自分もいる。
さらには、自分のやりたいことをもっと積極的に発信した方がいいことを改めて痛感させられたし、今年は何らかの習慣や環境作りに注力した一年間にしてもいいとも思わされた。

そして、「仲間」を創る努力がまだまだ自分には足りないことを強く痛感させられた。今回の体験・経験の中で一番強く感じさせられて、ずっと考えさせられている要素とも言える。なかなかライバルや親友といった存在が少ない自分だから、そういう気持ちにさせられているのかもしれない。
こういった場所に来てコネクションはできて、その後に色々と意義のあるものになるケースもちらほらあったが、これからは定期的に一緒に何かに動いたり思考を共有したりすることができる存在を得られるきっかけを増やしたい。

また、このイベントには少しの転機をしっかりとものにしている方が多く登壇しており、人間的に恰好いいとがよくわかる行動や姿勢が度々垣間見えた。

最後に、今住んでいる京都や地元の三重にゆかりのある人もそれなりにいたし、京都を始めとした日本文化や哲学を始めとした人文科学に興味を示してくれている人もいたから、そういう内容のコンテンツ作成の需要があることや、その作成に必要な環境づくりは喫緊の課題だと感じた。


まとめ

今回の出来事は、改めて自分を見つめられる良い機会だったし、仲間の大切さというか仲間がいることの精神的なメリットの大きさのようなものを強く感じられる機会でもあった。

ここから、今年は【色んな繋がりを活かした行動を増やす】一年にしたいと思った。もう少し具体的に書くと、【コミュニティに参入する機会を増やす】一年にしたい、かな。


エンディング

自分は、「やってみたい」とか「行ってみたい」ということは、思い立ったときに動いていかないとなかなか実行、そして完成まで持っていくのが難しい性分なのかもしれない。そのせいか、1月末に想定していた記事用のネタも現時点では回収できていないのが悔しいし、1月投稿した記事が現時点で1本しかないのが何より「もっと頑張らなきゃ」と思わされた。2月はもっと投稿していきます!

今回の記事は、思い切って参加した後に気づいたことや概要を言語化、そしてメモを残していて、それを中心に構築していった。そのメモも5枚にわたるかなり量の多いものになっている。

こんなに長い記事を最後まで読んでいただきありがとうございました!また何かの記事を読んでもらえたらと思います。

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