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2024年2月3日の気づき

オープニング

2024年2月3日は、たくさん出来事が詰め込まれた1日になった。そこで得た気づきをここで言語化していく。

色々詰め込みすぎて時間が取れなかったのを悔やむ一方で、短時間だからしっかり集中できたというポジティブな面もあった。ただ、少し説明不足な部分もあるかもしれないということは留意しておいてほしい。


メイン

ここからは、3日にあった2つのメインイベントを記していく。

特別シンポジウム-木村敏が伝えたかったこと-

このシンポジウムには、同じ哲学という学問領域を研究している友達に誘われたから行った。木村敏氏についてはほぼ全くといっていいほど前提知識がなかったから、今思うと少しぐらい調べておけばよかったのかな。ただこのシンポジウムを通して、木村敏氏の哲学体系の片鱗を垣間見ることはできたと思う。

前後の用事の関係で-シンポジウムⅠ「死をもって生きるということ」-という講義ぐらいしか時間が取れなかった分、じっくりとお話を聞いた。その次の講義-シンポジウムⅡ「西田哲学の継承者としての木村敏」-は、自分が研究対象としている西田幾多郎についてのお話だったとのことで聞けなかったのは残念だった。
ただこのシンポジウムの参加特典として、全講義のレジュメを頂けたのは非常にありがたかった。そのおかげで、後日友達と一緒にこれらのレジュメを通して、シンポジウム全体を振り返ることができた。

-シンポジウムⅠ「死をもって生きるということ」-という講義で特に印象に残った要素は、個別的生=「ビオス」と生命体一般に脈々と受け継がれていく生=「ゾーエー」という概念と、西田幾多郎の哲学体系がもたらした影響の大きさである。

前者は、生死は「ビオス」のような単なる個体ごとのポイントであって、その個体に対する影響について考える機会は多かったが、より広い視点というか高次的な観点のような「ゾーエー」についてはほぼ考えたことがなかったから、印象に残った。このゾーエー=〈生〉がこの講義のテーマとなる「あいだ」に繋がっていることや、集団主体性という生命一般につながる要素などが講義の中で登場していた。生きることは「権力への意志」を得たり使ったりすることかな、と研究していて考えている自分にとっては、これらの考え方は一種の持続可能な生について考える契機にもなりうると考察した。今までの「人間観」にまた少しの深みが足されたような感じとでも表現できるかな。

後者は、哲学という領域とは少し異なる精神・心理学の領域にまで影響を与えていることを感じたことで印象に残った。西田幾多郎については、自分が去年あたりから研究していることもあって、近代日本における哲学の体系化に大きな影響を与えたことは知っていた。「主客未分」や「禅」といった日本文化に受け継がれている潜在的な要素を言語化した西田幾多郎の哲学が、この講義やシンポジウムでは度々どころか、中心的なエッセンスになっていた。
その体系を精神・心理学の領域に導入するのはかなり大変なはずなのに、さまざまな精神病に発展させていったり、「生きる」ということを客観的に分析したりしていた木村敏氏の凄さをこの講義から感じられた。

また先にも述べたように、木村敏氏に関する知識がほぼ全くなかったこともあって、理解が追いついていない部分が多々あったが、野間俊一氏が提案した【「あいだ」への開け】にはすごく興味が湧いた。
この提案された考え方は、西田哲学や京都学派によく出てくる「人間観」に新しいスパイスが足されたような感じとも言える。人間とは「人とのあいだ」であるということを、改めて考えさせられた。そのあいだにも種類や分類があるということは初めて知った。今後の野間俊一氏の論展開が気になった。


根ノ木あさみさんの個展「流れる境界」

久しぶりにあさみさんの作品を生で観ることができて愉しかったし、個展の空間を大満喫できた。個人的に今回の個展で気に入ったポイントを挙げていく。

1. 作品の中で描かれている「紫」の美しさ
紫は、普段の景色の中ではなかなか意識しないと目にしない色であることから、強く心惹かれるのかもしれない、ということを感じた。
また、度々個展に訪れられていることもあって、懐かしさを味わえる作品も増えてきた。そういった作品には、全体的に青で描写された景色に心惹かれていたが、今回は「紫」が強く印象に残った。何か精神的な変化が見られたのかもしれない。

2. 【隙間】が持つ意義
あさみさんの作品に名付けられたタイトルには観るたびに、上手いやかっこいいに似た衝撃を受けている。そして、作品の紹介文には毎度、感銘を受けている。その中でも今回は、「一瞬」や「積み重ね」などの【時間を抽出する】表現が度々現れていて、そこに含まれる「隙間」にビビッときた。
ここで、「隙間」についてもう少し考察していく。あさみさんの作品には「隙間」が綺麗に表現されていると感じる。作品には【時間を抽出する】表現があることから、《時間的要素》が含まれているのはもちろん、キャンバスの外にも続いていくであろう風景についても考えさせられるぐらい綺麗な作品であることから、《空間的要素》や《思考的要素》も含まれていると解釈できる。これらのことから、一つの「ゆとり」や「空間」とも言えると考える。
「だから何やねん!」と自分でも書いていて思っているが、この解釈がもっと解像度の高いものになれば、もっとあさみさんの作品を、ひいては芸術作品を楽しめるようになると改めて考えることもできた。

3. 個展が開かれている会場の雰囲気
個展が行われていたギャラリー&カフェ『GALLERY blanka』では、机や椅子があることあって、座りながら作品を観ることもできた。座ることで当然目線がいつもより下がる。そのこともあって、かなり作品に対する印象が変わったような感覚を味わうことができた。ここには、作品に対する光の当たり方や視線の向きが関係しているのかなと思った。
さらには、展示されているキャンバスにも多様性がみられた。今まで観てきた作品には横長のキャンバスが多かった中で、今回展示されてきた作品には縦長のキャンバスもあって、新鮮味を味わえた。
また、天井が少し高いこともあって開放感もあったし、作品が空間の至る所に展示されていて、あさみさんワールドに引き込まれたような感じもあった。

また今回の個展は、以前あさみさんから伺った話にもあった、念願の名古屋での開催ということもあって、あさみさんがどことなくいつもより感情豊かな雰囲気でいたことも印象的だった。おめでとうございます。

最後に、2月4日(日)までの短期間での開催だったから観にいくことができて、改めて本当に良かった。根ノ木あさみさん、今回もお世話になりました。


雑談

ここでは、先述したメインイベントの合間にあったプチイベントを、少しフランクな形で記していく。

節分限定鯖巻

〈京鯖寿し 花折〉という鯖寿司のお店で、節分限定の鯖巻を購入した。非常に美味しかったし、ボリュームあってとても満足でした。鯖と大葉のバランスというか食べ合わせがかなり良かった!そして購入してから少し時間が経ってしまったこともあったのか、ごはんが食べやすい柔らかさで、鯖との食感の違いも楽しめた。

お店の外装(写真参照)も創業110年の長い歴史を物語っていて、とてもお洒落だった。店内でのお食事もできるお店だから、中で食べる機会も作ってみたい。

京鯖寿し 花折の店先にて一枚。
(撮影者:自分)

名古屋行の新幹線車内にて

行きの新幹線車内で、隣に座った女性とタメになる意見交流をした。
新幹線に乗る時に自分なりにやっていることとして、降車する駅を隣に座っている人に伝える、ということをしている。その方が自分の降りる時に迷惑かけないかな、と思っているからやっている。そこから、今回のような機会になったのはびっくりしている。

交流の話題の流れとしては、まず自分が名古屋へ個展に行くこと、そして自分が今勉強していることについて、さらに哲学を勉強する際の導入について、最後に芸術や人文科学の重要性について、だった。

この交流では、芸術や人文科学に親しむことで双方向なコミュニケーションがより容易になりうることや、教養や文化について触れる機会が多ければ多いほどコミュニケーションの幅が広がり、色んな情報のアンテナを持てるだけの余裕があることなど、たくさんの話のタネが生まれた。そこから、芸術や人文科学といった領域は、目に見えないものをなんとか目に見えるような形で表現しようとする試みがなされている領域であり、そのために言葉を日常生活以上に大事にしているのかもしれないと考えた。


エンディング

本当に濃い1日だった。この1日の最後はシンポジウムに参加した友達と一緒に呑みに行って、すごく満足したまま1日を終えることができた。

ここまで少し長い文章になりましたが、読んでいただきありがとうございました。
メインの執筆に思った以上に時間がかかったけど、その分、色々な解釈や考察を得られて満足できた。これからもよろしくお願いします。

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