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【長編小説】 初夏の追想 14 

 ――彼らとの交流が始まって、数週間が過ぎていた。そして、六月の声を聞くとすぐに梅雨が訪れ、連日さあさあと小さな音をたてて雨が降り続いた。
 山中の別荘ではこの時期、一日のほとんどを霧に包まれた中で過ごさなければならなかった。夜明けとともに発生した霧は、日中になっても山の木々のあいだにとどこおり、無音のうちにしっとりと枝葉を濡らしていた。そして、細かい雨が、いつ止むともなく、一日じゅう静かな音を立てて降り続くのだった。遠方の山々は、雨のカーテンの向こうに白く煙り、麓の街は、まるで海底に沈んだ古代都市の遺跡のように、ひっそりと横たわっている。
 それは、何とももの悲しい風景だった。
 これを、風情があってよろしいと見る人もいるのかもしれないが、私にとっては、それはただ、人間の持つあらゆるセンチメンタリズムを体じゅうのすべての毛穴から染み出させ、肌を覆い尽くし、いつしか頭のてっぺんから足の先まで憂鬱という半透明の膜で包み込んでしまおうとでもいう、大自然の悪意ある思惑おもわくにしか思えないのだった。
 
 私はそのころにはもう、家族の一員のように犬塚家の別荘に出入りするようになっていた。それは、私のような仲間が自由に出入りすることを犬塚夫人が望んだせいでもあったし、私のほうも、そのお陰で祖父の圧迫から逃れられるということもあった。犬塚夫人と守弥の肖像画に着手したころから、このところとみに自分の世界に入り込み、制作に没頭するようになった祖父は、日に日に近寄りがたさを増していて、同じ空間にいることが息苦しいほどになっていた。
 ――五回目だったか六回目だったか、座ってもらううちに、犬塚夫人の目の中に、少しずつ怒りのようなものが芽生えてきたのに私たちは気がついた。彼女は絵筆を取る祖父のほうへ、じっと鋭い視線を送るようになった。それはとがめるような色を含んでいて、その鋭さは、回を負うごとに強くなっていった。……そしてそれはある日ついに、鬼気迫るものに変化した。
「もう、モデルはいいだろう」
 疲れたような顔をしてそう呟いた日から、祖父は対象なしに、ひとりで制作を行うようになった。あらかたのイメージは固まった、あとはそれをどう表現していくかだ、と祖父は私に話した。
「奥さんは、どうしてあんな目つきでお祖父さんをにらんでいたんだろう?」
 私は言った。彼女の目の中に、恐ろしいものを私も感じていたからだ。
「犬塚さんも疲れたんだろう」
 ぽつりと祖父は言った。
「絵のモデルというのは、意外に体力の要る仕事なのだ。私の筆がなかなか進まないので、イライラし始めたのかもしれない。息子のほうは、粘り強く我慢してくれていたがな」
 守弥に対して感心を示すような顔で、祖父は言った。
そういうわけで、祖父は毎日ひとりでキャンバスに向かうようになった。そういうときの祖父は誰にも近寄りがたく、そして小さな物音ひとつ立てても神経を逆撫でされるような様子だった。それに連日の雨のせいで、あの素晴らしいバルコニーが使えないので、私は祖父の離れに自分の居場所を見つけられないでいた。無性に誰かと話したい衝動に駆られるようになった私は、そこから逃れるように、向かいの犬塚家の別荘におもむくようになったのだった。そんなとき私は、話の種にと、少しずつ自分の蔵書や祖父の持ち物である美術絵画についての書物を携えて行った。
 
 
 
 「モディリアーニ……。楠さん、あなた、この素敵な色男の画家をどうお思いになる?」
 あるとき、犬塚夫人が言った。彼女は、私が持ち込んだモディリアーニの画集をしげしげと眺めていたところだった。
「エコール・ド・パリの異端児、いまある典型的な芸術家のイメージの先駆け……。退廃的な生活を送った最後のボヘミアン、芸術史のひとつの時代をものすごいスピードで駆け抜けていった輝く彗星のような画家。いずれにしても素晴らしい芸術家です」
 私は答えた。
 犬塚夫人は、溜息をついて、小さく首を振りながら言った。
「私、モディリアーニの作品を初めて見たとき、正直何て変な絵だろうと思ったの。人物の顔も首も長過ぎるし、それに、目に瞳がないでしょう? 青く塗りつぶされていたり、アーモンド型だったりするけど……。ああ、ほら、この『青い目の女』なんて、一見ちょっと気持ち悪いわよねえ」
「ごくごく健全な反応ですね」
 私は彼女の開いている画集のほうに体をかがめて、頬杖をつきながら言った。私たちはいま、台所のテーブルに座っていた。守弥と柿本は、今日は朝からそれぞれの制作にかかっていた。彼らはいま、梅雨どきの戸外の風景に凝っていて、二階の部屋に二人して画架イーゼルを並べ、窓を開け放ち、雨に濡れる森林や遠くの山の微妙な色彩をとらえることに熱中しているのだった。
「あら、そうかしら?」
 彼女は顔を上げて言った。少し咎めるような表情を浮かべていた。
「楠さん、あなた、彼が好色だったとお思いになる?」
 そう言ったときの彼女の表情は、何だかいつもと違っていた。いつもこの家の主として采配を振るっている彼女は、その場の華であり、まるでサロンの女主人のようだった。だが、このときは、何かが違った。彼女は突然、ひとりの女の顔をして私の前に現われた。その、こちらを真っ直ぐに見つめている眼差しは、年齢に似合わない無邪気な少女のようなあどけなさを呈していた。そして、彼女の場合はさらに、成熟した女性だけが持つ、それもある種の選ばれた女性だけに許される、ろうけた色気に縁取られているのだった。
 彼女は続けた。
「前に、こう言った人があるわ。モディリアーニの描く裸婦たちは、皆何か恍惚こうこつとしたような表情をしているって。モディリアーニが彼女たちを描いたのは、情事の直後だったのではないか……って」
「……。それは、一理ありますね」
 私は答えた。
「私も同じことを考えたことがありますから」
 彼女は笑った。
「でも、本当に、それは事実なのかも……。だってモディリアーニは美男で有名で、女たちは皆こぞって彼のモデルになりたがったそうじゃありませんか。全然、有り得ないことではないですよ」
 私は言った。
「そうね。あの時代のパリで、画家とモデルのあいだにそういうことがなかったというほうが、おかしいわよね」
 彼女はそう言ってまた笑った。そして、少し何かを考えていたかと思うと、突然こんなことを言った。
「……ねえ、肉体の欲求について、どうお考えになる?」
 私はすぐには答えられなかった。言葉に詰まって、黙り込んでしまった。やや唐突な質問であったのだ。慌てながら、それは健康な人間なら、誰もが持つ生理的な反応であって……、などと説明しかけていると、彼女は手を振ってそれを遮った。
「肉体の欲求を満たしたいなら、同じ欲求を持った人といくらでも満たせばいいんです。純粋に、肉体だけを求めている相手とね……。それは、現実的にまったく不可能なことではありません。むしろお互いにとって充実した時間を過ごせる、ある意味では人間としてこれ以上ないというくらい自然なことだわ。性欲というものは、人間の根源的な力なんですからね」
 
 ――でも、ひとりの人とで強く結ばれたいと望むなら、事はそうたやすくはいかなくなるわ。私たちは、知恵を絞り、情熱を駆り立てて、あの手この手で、いつも相手の気を引いていなければなりません。そう、その人の、それこそ一挙手一投足に、はらはらしたり、ときめいたりしながら……。自分の持つ〝生〟の力をとことん捧げてね……。そして、その人との肉体関係については、大きな意味を付さないではいられません。例えばそれが、何時いつでも取り出して、誰にでも詳細に説明できる自分だけの大切な宝物であるかのように……。
 
 そう語っているときの彼女は、こちらが気圧けおされるほど、毅然きぜんとしていた。そして、その瞳ははっとするほど強い光を放っていた。――彼女はいま、篠田とのことを語っているのだろう、と私は思った。そう推測するのに、二人の年齢とこれまでともに経てきた歴史はおあつらえ向きだった。彼女の話からするに、夫とは上手くいっていないようだったし、画廊を共同経営するうちに、自然とそういう関係になったのだろう、と。
「さっきの話ですけどね」
 犬塚夫人は言った。
「……モディリアーニは、パリに到着したときにはすでに重度の結核に冒されていました。病気への恐怖から、アルコールや薬物に溺れていたという話だから、もう体はボロボロだったはずよ」
「つまり……?」
 私は言った。彼女は小さくうなづいた。
「絵を描くだけで精一杯。モデルと情事を営むなんて、とてもそんな体力的な余裕はなかったのではないかしら。……そりゃ、ときには体調のいい日もあったでしょうから、そんなときはもしかしたら彼の愛の恩恵にあずかった幸運なモデルもいたかもしれないわ。でも彼の絵に描かれている女性の多くは、画家モディリアーニの前に裸体をさらして自分を描いてもらっているというだけである種の興奮を覚え、陶然としてああいう表情になったのではないかしら」
「そう思われますか」
 犬塚夫人は唇に微笑を浮かべながら、再び毅然としてうなづいた。
「女にしか理解できないことかもね。でも少なくとも、これが私の考えよ」
 なるほど、と私は感心した。さまざまな噂で彩られたモディリアーニの生涯において、それが真実かどうかは定かではないにしろ、彼女の洞察はある意味理にかなっているように思われた。そして、女性であるということは特別な事柄なのだということを、そのとき彼女に教えられた気がした。

 いま、犬塚夫人はモディリアーニの画集を一ページずつゆっくりとめくっていた。そして五,六ページ目をめくったあたりでその手を止めた。
「……ジャンヌ・エビュテルヌ……。モディリアーニの最後の愛人ね」
 そこには、茶色の長い髪を肩のあたりまで垂らした若い女性が、強い意志を秘めた目をして正面からこちらを見据えていた。その絵には、はっきりとした黒い瞳があった。
「ジャンヌ・エビュテルヌはモディリアーニがもっとも愛した女性でしたね。そして彼女も誰よりも強くモディリアーニを愛していた」
「あまりにも有名な話よね」
「モディリアーニが三十四歳、ジャンヌが十九歳のときに二人は出会ったんですよね。そして激しい恋に落ちた。厳しいカトリック教徒だったジャンヌの実家は、ユダヤ系である、飲んだくれの放蕩者のモディリアーニとの結婚に激しく反対しました。それでもジャンヌは愛を貫き、両親を棄ててまで、愛しいアメデオのところに走ったのですよね」
「ああ、アメデオ!」
 犬塚夫人は私がモディリアーニのファースト・ネームを登場させると強く反応して、目を見開き激情にかられたように彼の名前を呼んだ。
「ジャンヌ自身も若き画学生だったのよね。彼女はアメデオを画家として芸術家としてとても尊敬していた。そして男として……生涯一度の恋をした」
 陶酔したような声で、犬塚夫人は話した。
「……彼らが一緒に過ごした時間は、わずか三年間。一九一八年、ドイツ軍の侵攻による疎開のためにパリを離れたとき、ニースでジャンヌという一人娘を授かった。そのときは幸せの絶頂だったでしょうね」
 アメデオとジャンヌの幸せな姿を思い描くかのように、彼女は目を閉じて微笑んだ。
「けれど、それは長くは続かなかった。アメデオの病状はどんどん悪くなっていったのだから……。南仏への避難行からパリに戻って来て、最後の日々、彼らはどんな気持ちで過ごしていたのでしょうね」
 私は言った。犬塚夫人はまだ目を閉じたまま、眉間に皺を寄せて首を振った。
「……ええ、それは辛くて哀しい時間だったでしょうね。二人はこんなに愛し合っているのに、病魔は残酷にアメデオを蝕んでいく……。若くて健康なジャンヌには、耐えがたい苦しみだったに違いないわ」
「心の準備はできていたんでしょうかね」
 私はえて問うてみた。
 犬塚夫人は、きっと目を開けると、私を睨むように見返した。
「心の準備なんて、できるわけがないわ。彼女はそんなことは起こらないようにと、毎日神に祈っていたでしょうし、彼を連れて行かないで下さいと、一分一秒ごとに懇願していたはずよ」
「まるで、ジャンヌの心がわかるようですね」
 私は思わず笑って言った。犬塚夫人のジャンヌ・エビュテルヌへの入れ込みようは、尋常ではないように思われた。
 すると彼女は、首を振って、いいえ、いいえ、と、否定の仕草を繰り返した。
「……彼女の心は誰にもわからないわ。あんなに……あそこまでひとりの男性を愛することができるなんて。……私にはとうていできっこない。無理よ。愛情を、自分の命よりも優先するなんてことは……。楠さん、あなたにはできますか?」
「僕にもできないでしょうね」
 私は答えた。
 ふう、と、彼女は溜息をついた。けれど……、と、彼女は言った。
「時代も、文化風習も違う遠い世界の人たちだけれど、何だか逆にうらやましい気もするのよね。彼らの持っていた情熱、ああいうものに、私は強く憧れるわ」
 ジャンヌのように生きてみたいものだ、と、犬塚夫人は言った。
 情景を辿るような気持ちで、私は言った。
「ジャンヌ・エビュテルヌはモディリアーニが結核で亡くなった翌日、実家の集合住宅の六階から身を投げて自殺した」
「二歳になる娘を遺して……ね」
「お腹にもうひとり子供を宿していた、というのは衝撃的でしたね」
「……それほど愛に生きていたのね。愛のためだけに」
「……」
 でも、そうすることによって、アメデオとジャンヌはで結ばれたのよね、と、彼女は言った。
 
 私は犬塚夫人との会話に、何か不自然なものを感じていた。彼女は感受性が強過ぎ、明らかに普通の女性とは違うようなところがあった。……そして、不思議なことだけれど、そんな彼女の風変わりなところに、私は強く惹かれるものを感じていたのだった。
 私はそういった不思議な気分のまま、何かを思い詰めているような様子の彼女を見て、話題を変えようとした。
「……僕は、性愛さえも自由に画布の上に乗せてしまう、あの時代の画家たちの真っ直ぐな姿勢が好きなんですよ」
「そう。当時の時代背景を考えたら、女性の裸の描き方ひとつにしても、社会的に大きな物議を醸していたでしょう。ご存じ? マネの『草上の昼食』や『オランピア』が巻き起こした騒動のことを……」
 彼女は気を取り直したように、顔を上げ、話題を膨らませた。
「もちろんです。いまの時代の僕たちにとっては、人体の裸体ヌードを描くことは芸術の枠内において何ら問題のないひとつの表現法ですよね。現代ではすでに裸体ヌードはひとつのカテゴリーとして確率していて、表現の多様性への理解も進んでいる。ところが、挑発的な眼差しでこちらを見据えるオランピアの姿や、脱いだ洋服も一緒に描かれている『草上の昼食』の裸婦のリアルさは、画一的な原則の下に暮らしていた当時の市民たちには道徳と信仰へのとんでもない冒涜ぼうとくだと映ったのでしょうね。本当にマネは気の毒ですよ。……でも、驚くべきは、そういうカトリック的な意識が深く浸透している保守的な社会において、マネがいかにしてその絵を描く発想を得たかということですよね。現状の常識を破って、新たな発想を表明するのが芸術の本分だとすると、マネは紛れもなく真の芸術家でしょう。そして、男気のある人です」
 私は笑った。彼女もまた笑っていた。

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