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【長編小説】 パリに暮らして 5

 ……これは、どこからの記憶だろう。
 私は起きた出来事を辿たどっている。否、これは今、実際に起きていることなのかもしれない。その証拠に、私は柊二さんの匂いを、触れた感触、体温を、まざまざと感じることができる。柊二さんの顔は今、とても近くにあった。抱き合った時、少しの男臭さと、何だろう、今まで嗅いだこともない香水のいい香りがした。私はそれを鼻から、ゆっくりと時間をかけて吸い込んだ。
 私は弛緩・・した。私が、というよりも、私の身体の中、私の周辺の空気までも、全てが緊張することを一切やめた、と言った方が適切かもしれない。神経が、癒やしを得たかのように軽くほどけたような感じだった。

 パリには〝神経〟という言葉が似合うように思う。それはこの街に住む人々の多くに見られる目の下の顕著けんちょに表れている。彼らの何気ない表情の中にふと影が差すような感じ、どことなく寒々しい歩き方などを見ていると、彼らの内の無視できない数の人々が、神経に関わる問題を抱えているのではないかと私には思える。
 でも、それだからこそ、私にはパリが合う気がした。同病相憐れむ、というわけではないが、どこか自分と彼らの間に共通点を見出せるような気がしたのだ。

 柊二さんが私の顎を包み込むように手を添え、唇を重ねてきた時、後ろ頭にアパルトマンの壁の固い感触を感じた。私にはもう、どこにも逃げ場所はなかった。いや、逃げる気など毛頭なかったけれど。完全に弛緩した、神経の呪縛から解き放たれた私の五感は、今自分から全てを〝味わう〟ことを求めていた。原初的で、即物的な欲求が、身体の真ん中辺りから膨らんできた。そしてここには、何もそれをはばむものはない。これを本能というのだろうか。私は柊二さんの目をのぞき込みながら思った。柊二さんの目の中には、そうだと答えているような野生めいたひらめきが見えた。私よりひと回りも年上なのに、彼の中に宿っているこの生命いのちの強さは何なのだろう。それが彼の持って生まれたほまれなのか、それともパリで三十年暮らしてきた中で自らつちかった能力なのか、私にはわからなかった。

 でもそんなことはどうでもよかった。その時彼の中に見えた閃きはある発端となって、私の中にあった何かが大きく花開いたからだ。私は柊二さんを強く求めた。壁に押しつけられ、受け身な体勢でありながらも、私は確かにそれを受け入れることを求めていた。

 柊二さんの唇が首筋を這って、もう少し下の方へ行きたがっているのを感じて、私は自らセーターを脱いだ。夜更けの部屋の空気はちょっと肌に冷たかったけれど、私の体は確実に熱を発し始めていた。
「不思議な気分……。若いころは、こんなに熱くならなかった」
「君はこれからなのさ」
 柊二さんは今、ブラジャーの紐を下ろして、私の乳房を曝そうとしていた。彼の視線が胸に注がれる。恥ずかしさを感じて、私は少し身じろぎした。
「大丈夫。すごく綺麗だよ」
 彼の声はとても優しくて、うっとりしているように響いた。本気で言っているのかいないのか、わからないにしても、それは私に裸体を曝しながら男性の前に立つ勇気を与えてくれた。
 今や私は、彼の目を真っ直ぐに見ることをためらわなかった。

 私は背中に手を回して自分でブラのホックをはずしながら言った、
「ねえ、寝室に連れて行ってくれない?」
 
 
 
 
 ――柊二さんにとっての性愛は、ギャップの埋め合わせだ。
 塗り残しのないように緻密ちみつに塗り絵を塗っていくように、少しの〝隙間〟をでも見つけると、柊二さんは懸命にそれを埋めようとする。それはもう、丹念に、ひたむきに。私には、時にそういうところが、少年のように思えてしまう。一度私はそれを口に出して言ったことがあった。柊二さんは、驚いた様子で、「そうかい?」と言った。それは、意外と彼のお気に召したようだった。段々と、顔に満足の表情が広がっていった。それを見て、私はますます〝少年のようだ〟と思った。

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