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【ホラー短編小説】 淵 5 最終回

 ――このごろ、夜、はじめの寝室から妙な声が聞こえる。同窓会から帰ってきて以来、玲子はずっと不審に思っていた。
 けー、けー、と最初は聞こえていたのだが、近づいて行ってよく聞いてみると、え、え、と、はっきり言葉を喋っている。
 
 はい来え、こっち来え。
 
 眠っている一の口からこぼれているのだ。何か夢を見ているらしい。
 
 一……と声をかけた。目を覚ました一は、とろんとした夢うつつの目つきでこちらを見た。
「あんた、しょわあねえんな? 寝言を言いよったで」
 怜子が言うと、半身起き上がって目をこすりながら、
「怖え夢見た」
 と言った。
 どんな? と聞くと、おぼろな声で覚えてねえ、と答える。
「一緒に寝てやろうか?」
 と言うと、いいや、いらんと言った。このところ少し色気づいてきて、小さいころのように怜子に一緒に寝てもらいたがることがなくなっていた。それで、大丈夫だろうと一をひとり部屋に残して、怜子は襖を閉めた。

 一は再び浅い眠りへと誘われていった。夢の中で一は薄暗い台所にいて、目の前には死んだ母親が立っていた。母は一に背中を向けて、コンロに向かって料理をしている。
 見ると、母親は大きな鍋の前で、天ぷらを揚げていた。鍋の中には大量の油が入っており、母親は大人数分の天ぷらを揚げているようである。
 そのとき、天ぷら油がほとんど縁いっぱいまで入った鍋が、ゆっくりと持ち上がった。それは、一が見ている前で、ぐらぐらと煮え立つ油とともに、向こう側から立ち上がるように傾いて、高く持ち上がっていった。
 母親の顔色が変わる。ものすごく慌てているのがわかる。けれど、もう遅かった。平行を崩した鍋は大きく傾いて、母親に襲いかかろうとしている。高温の煮えたぎる油が、高波のように、母の上に覆い被さっていく。
 そのとき、一は見てしまった。そのときそこにあろうはずのないもののの姿を。そしてそれは、母親の命を奪った大惨事の根幹を成すものだった。
 鍋が動き始めるほんの一瞬、ぐーっと持ち上がっていくとき、その取っ手をつかんでいる手が見えた。
 それは赤子のように極めて小さな手であり、青黒くくすんだ色をしていた。
 そして、ほぼ垂直になるまで立ち上がってしまった鍋が、その中身の油を母親の全身に注ぎかけているあいだ、鍋の向こう側に半分ほどはみ出して見えている、胎児のように小さな顔をも、一は見てしまったのである。
 
 そこには、生まれたくてたまらなかったのに、この世に生まれ出でることを許されなかったあにやんの顔があった。この世のあらゆることを楽しみに、体験し尽したいという強い念と怨みを秘めた、血走った目が、そのとき一を見えていた。
 
 鍋の向こうから兄は言った。
「はい来え、こっちに来え……」
 
 それは、容赦のない強い吸引力を持った、ほとんど命令のような言葉であった。
 
 


 ――このところ、一の様子がおかしい。
 以前はやかましいくらいに明るく活発で、ふてぶてしいほどの生気にあふれた子どもだったのに、ここ一、二週間ほどで、すっかり落ち着いた、線の細い陰気な子になってしまった。
 以前の一は大勢の友だちと一緒に外を駆け回って遊ぶ行動的な性格だったのに、最近はもっぱら家の中で遊ぶようになった。友だちともまったく会わず、独りでテレビを観たり、本や漫画を読んで、充分満足に時を過ごしているらしい。
 一の体は痩せ始め、食の好みも変わって、前は大好物だった怜子の作る唐揚げをあまり食べなくなった。その代わり、かき氷やチョコレートなど、甘いお菓子類を大量に食べるようになった。
 
 怜子は一を、九月か十月ごろの死にかけの蚊のように、影の薄い子になってしまったと思った。病院に連れて行って診てもらったが、幸い体にはどこにも異常はなく、むしろ学校の成績は以前よりも良くなったくらいだったので、大人びてきたせいだろうとひとまず自分を納得させた。
 
 ……それでも最近、怜子は一が一自身ではないような気がして、落ち着かない。
 つい昨日のことだ。二階の薄暗い倉庫で、お菓子作りに使う白砂糖の袋を勝手に開けて、一が砂糖を舐めているのを見てしまった。
 そのときの一の表情が、怜子には非常に不気味だったのである。
 一は、まるで生まれて初めて砂糖を舐めるかのように、異常なほど目を光らせて、陰に籠った恍惚に浸っているように見えた。そしてこれ以上幸せなことはないといった顔で、目を細めながら砂糖を舐めていたのである。
 
 
   終

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