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「チュニジアより愛をこめて」 第5話

 ――“Do you wanna see me? “ 私に会いたい? と問うたメッセージへの答えに、彼は “Yes” とだけ返してきた。
 相変わらず言葉少なだな、と思いながらも、私の胸は高鳴っていた。
 彼に泊まっているホテルの名を教え、正午に建物の前で待ち合わせをすることになった。彼は今、ナブール市の実家にいると言った。けれどナブールからチュニスに出て来るのは “造作ない” ことなのだそうだ。 “一時間ぐらいで着けるから” と、彼は言った。

 正午までまだ二時間ほどあった。私はホテルを出て、メディナの中にあるスークを散策することにした。彼の生まれ育った国の空気を存分に吸って、彼と相まみえる心の準備をしておきたいと思った。
 私の宿泊しているホテルは、メディナの中心部にある。 〝メディナ〟 というのは本来アラビア語で「町」を意味する言葉であるが、チュニジアやモロッコ、アルジェリアなど 〝マグレブ〟 と呼ばれる北アフリカの国々では「旧市街」という意味を持つ。世界の大きな都市には必ずと言っていいほどある、近代的な建物の並ぶ新市街の隣にひっそりと古き良き時代の街の姿を留める、歴史的価値のある区域である。
 その中の活気あふれる一画が、 〝スーク〟と呼ばれる商業区だ。それはさながら人でごった返す市場の様相を呈していて、並べてある物品の量といい、店を冷やかしながら歩く人々の数といい、それはもう圧倒されるほどのものである。狭い路地を、擦れ違う人達をよけながら苦労して進んでいる間も、様々な物をあきなう店が途切れることなく展開していく。衣服を大量にぶら下げている店、銀メッキのアクセサリーを売る店、景気のいい売り込みの声を掛ける恰幅かっぷくのいいオジサンのいる店、伝統的な絵の入った額縁を並べている店、バッグやスリッパバブーシュなど、皮製品を売っている店、帽子屋、貴金属屋、水煙草シーシャのずらりと並んだ店……。可愛らしいランプ、楽器、タジン鍋などの食器、カラフルなグラスに陶器、チュニジアの美しいドアを型どった置物、絨毯、額に入れられた蛇やサソリの標本、砂漠デザート薔薇ローズという砂色のギザギザした貴石、ベルベル人の人形、その他何に使うのかわからない品々……。
 この小さな路地の両脇に、あまりにもありとあらゆるものが密集している。クラクラと目を奪われながら、彫金師が金属の皿に模様を叩き込んでいる音の響く中で、私は迷宮に入り込んだようにスークをさまよった。

 私は、迷いながら歩いた。歩きながら、時間通りに彼との待ち合わせの場所に戻れるかどうか、心配になった。縦横無尽に張り巡らされたスークの小路を、右に曲がったり左に折れたりする内に、今自分がどの位置にいるのかすっかりわからなくなってしまった。
 どこに出るかわからないけれど、とにかく今いる小路の終わるところまで歩いてみようと思った。混み入る人々の流れに逆らって、取りも直さず前へ前へ進んだ。
 ――物と人に溢れた奇妙な迷路のその先に、ようやく出口のようなものの雰囲気が漂ってきた。道幅は次第に広くなり、甘味屋やカフェが見られるようになった。カフェの中では、壁に沿って等間隔に並べられたスツールに、男達が一人ずつ陳列物よろしく鎮座ましてお茶を飲んでいた。薄暗い小路の端に並べられた四人掛けのテーブルに座って休憩しているヒジャブ姿の女性を横目に見ながら通り過ぎると、周囲が明るくなって、突然道が終わった。

 幸運なことに、広い道に出ると、私はそこが見覚えのある場所だということを見出した。若い男の子が一人で店番をしている衣料品店は、ホテルを出た時最初に目についた店だった。その店の前を通って少し行くと、泊まっているホテルの入口が見えた。
 私はほっとして、スマートフォンを取り出し、時間を確認した。約束の時間までは、まだ一時間以上あった。そこで、私はその場を基点として、いつでも戻れるように意識しながら、まだ歩いていない方角へと向かって進んでみることにした。衣料品や雑貨などを売る店が相変わらず軒を連ねている通りを歩いて行くと、その通りの突き当たりに突然壮麗なモスクが現れた。艶めくベージュ色の大理石のような石材で作られているその巨大なモスクは、圧倒的な存在感を放っていた。

〝ジャーミア・ズィトーナ〟。

 すかさずスマートフォンでインターネット検索をすると、すぐに情報が出てきた。ケロアンのグランドモスクに次ぐチュニジアで二番目に古いモスクで、九世紀半ば、アグラブ朝という王朝時代に建設され、カルタゴの遺跡から切り出された石が多く使われているという。 〝ジャーミア・ズィトーナ〟 を訳すと 〝オリーブモスク〟という意味になる。チュニスのメディナができる以前は、この地にオリーブの木が沢山植わっていたことからつけられた名だという。チュニスの街は、このモスクを中心に発展していき、このグランドモスクはチュニスの母と言ってもいい存在なのだそうだ。
 ――突然目の前に現れたこの美しい建造物に、私は目を奪われた。すると、次第に 〝この中に入る日が来るかもしれない〟と真剣に考えていた日々に、思いは移ろっていった。

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