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【長編小説】 初夏の追想 17

 ――蝉の幼虫が、地中における七年間の精進の末ついに地上に出ることを許され、成虫となって声高らかに盛夏の訪れをうたい始めた。
 守弥はそのころ、私の肖像画の最後の仕上げに取りかかっていた。丹念に油絵具が重ねられていき、画布の中心に段々と私の姿が現れてくる過程は、見ていて面白いものだった。私は、守弥の手が忙しく動いているあいだ、あのベル・エポックの画家たちも同じような手順を踏んで彼らの作品を仕上げていったのかと想像し、密かな興奮を感じていた。
 いまでは柿本も肖像画に取りかかっていた。ただし、彼の場合は私ではなく、守弥を描いているのだった。守弥が始めた私の肖像画に刺激され、制作に励む守弥の真剣な横顔を、彼なりに何とか捉えようとしているようだった。「描いている最中は、守弥があまり動かないから描きやすい」と柿本は笑った。
 私はもちろん絵の良し悪しについて云々できるほど絵画を理解しているわけではなかったから、黙って彼らの描くのを眺めているだけだったが、それでも長いあいだ眺めているうちに、彼らそれぞれの作風の違いに気づくようになった。
 私の見方からすれば、守弥よりも柿本のほうが技術的には優れたものを持っているようだった。なるほど彼は現役の美大生というだけあって、かなり高度な技術の数々を習得していた。一方守弥は、柿本と出会ったというクラスにおいて、一通りの理論や技術を学んではいたが、彼の描く絵はというと、柿本のそれに比べて、荒削りというか何というか、繊細さという点で劣っているように見受けられた。柿本のタッチが、デッサンひとつにとってしても、いかにも周到で隙のないのに比べ、守弥のそれは、ところどころ歪んだりひずんだりして、稚拙さが目についた。だから私のような素人の目には、柿本のほうが将来有望な画家になり得るのではないかと思えたものだが、しかし芸術の面白さとでも言おうか、そんな守弥の絵のほうが、彼らが出品した展覧会で、ある高名な画家の目に止まったというのだ。以前彼自身が話してくれた通り、守弥は来春にでも、その画家の手引きによってパリに留学するかもしれないということになっていた。
 そして守弥は、何よりもそれを楽しみにしているのだった。彼は、柿本の前でこそその喜びを露わにするのをはばかっていたが、ひとたび私と二人きりになると、いかに自分がパリ行きに憧れているか、そして向こうで偉大な芸術家たちの足跡そくせきに触れることをどんなに待ちわびているかを、滔々とうとうと私に話して聞かせるのだった。彼は何を置いてもまずモンマルトルを訪ねてみたいと言った。そして、モンパルナスのカフェにも行きたがっていた。パリを離れる機会があれば、ル・アーヴルの港町の風景を描いてみたいとも言ったし、ルーアンやアルルに行って、彼の傾倒するゴーギャンの足跡を辿りたいとも話していた。彼は、彼の夢の数々について語るとき、いままでにないほど饒舌になった。そして、そのたびに、私にヴァン・ゴッホやゴーギャンの人生について語ってくれるようせがむのである。
 彼は、本当に私の口述する画家たちの物語が好きだった。私は、彼があちらに行って触れるであろうすべての画家たちの生涯の物語を、印象的な表現を凝らして話してやった。いまや私の語りにも、いくつかの経験を経た磨きのようなものがかかってきているようだった。そのとき、そのことが彼にどんなに英気を与えたか知れない。おこがましいことだが、このことだけに関しては、私は自身を誇れるような気がする。守弥は、まるで彼自身が絵画の傑作ででもあるかのように、美しく朗らかに笑った。そしてそれは、犬塚夫人の笑顔に重なりもした。

 彼は、まだ人生の大海原に漕ぎ出す前の、瑞々みずみずしい感性に満ちた若者だった。未来への希望に燃える彼のまぶしさに、私はある芸術的な美を感じた。……あるとき気づいたのだが、なるほど彼の容貌は、見れば見るほど絵画の中に出てくる人物の持つ雰囲気を、色濃くたたえていた。実際に彼を目の前にしていても、彼の与える視覚的なイメージは、不思議と現実の世界から浮き上がって、キャンバスの上に表現されるほうが似つかわしく思われるほどだった。犬塚夫人にしてもそうだったが、彼らは例えばその存在だけで、私たちのような趣味を持つ人間をもってして、絵画芸術への憧れを喚起し、それを観賞しているときのような気持ちを起こさせる特徴をそなえているのである。守弥はまさしくそのような存在だった。そして彼が絵をやっている……芸術にたずさわっているという事実が、ますますその関連性を増長させているのだった。  
 私はふと思った。守弥を初めて見たときに感じたあの不思議な印象は、彼がそういった絵画の中に住む人のような雰囲気を具えていることから来ていたのではないかということを。そして、私が絵画を嗜好する人間であったために、私の心が彼の持つそれに共鳴したのではないかということを……。
 
 ところで、私はここで、犬塚夫人の交友関係について少し説明しておかなければならない。繰り返し述べているように、彼女は大変な社交家で、ほぼ毎日誰か客人を招いていた。その中には彼女の知り合いであるという有名な文化人も沢山いたし、それに篠田の連れて来る感性鋭い芸術家たちの序列も、彼女のサロンに個性的な色を加えていた。客としてやって来る人々は非常に多岐に渡っており、歌手や俳優もいれば、大企業の重役であるとか、大手建設会社の社長夫人というのもいた。そんな多種多様な人々を何の苦もなく束ねるのが、これまた犬塚夫人の突出した才能であるとも言えた。彼女がいかにして理想主義的で鼻っ柱の強い若手の芸術家たちと、人あたりはいいがややスノッブな傾向のある富裕層の面々を上手く交流させていたのか、私には想像もつかない。とにかく、夏の休暇シーズンで客の数が増えていた時期には、私はもっぱら二階の静かなアトリエで守弥の肖像画のモデルをすることに一日を費やしていたので、一階の客間のほうで時折起こる歓声やどよめきの中でどんなことが話題になり、どういった会話が繰り広げられていたのか知らなかった。
 
 
 そんなある日、私は珍しく居間で篠田と二人きりになることがあった。
 我々はいつものように芸術談義に華を咲かせていたが、ふと会話が途切れたとき、篠田がぽつりと言った。
「楠さんは、この休暇を終えられたら、どうなさるのですか?」
 私は、この質問に、すぐには答えを見つけられなかった。それで取りあえず、実は自分は療養のためにここへ来ていたのだということ、会社勤めも辞めたいま、これからのことは、まだ考えていないのだということを説明した。
「篠田さんは、いつも芸術的な美しいものを御覧になれる仕事をしていらっしゃる。羨ましく思いますよ」
 私は言った。篠田は、しばらく何ごとか思案するような顔をしていたが、やがて私のほうに向き直ると、こんなことを言い出した。
 実はいま、彼の知り合いの美術館長が、学芸員の助手を探しているという。絵画芸術に強い感心があり、より深い知識を身につけることを希望する人材を求めているということだった。それで篠田は私を思い出した。その仕事を、私さえ良ければやってみないかというのだった。
 突然目の前に開かれた新しい世界に、私は呆然として、すぐに返事をすることができなかった。実際、まだ私は新たに職を探すという気持ちの段階にあったわけではなかったし、第一まったく心構えができていなかった。
「……まあ、最初は助手という肩書きで、学芸員の手伝いのようなことを何年かやってもらうことにはなるのですがね。そのあいだ、高額ではないが給料は出ます。でもその数年の経験を経て、あなたにやる気があれば正規の学芸員になることもできる」
 美術館の学芸員というのが、どのような仕事なのか興味が湧かないでもなかったが、その場はとにかく保留ということにして、少し考えさせてくれと私は言った。篠田は、急ぐ必要はないと言ってくれ、自分としては是非私を推したいというようなことまで言ってくれた。篠田は微笑みながら話した。彼は私にその話をしたことに満足しているようだった。
 
 それから二、三日が過ぎたころ、守弥の描いていた私の肖像画が完成した。創造というものに付きものの犠牲として、ほとんどのキャンバスは未完成としてつぶされてしまうことになったが、それでも一枚の油絵が完成していた。守弥はその出来になかなか満足していたらしく、作品を皆に披露したときは上機嫌だった。彼はひと仕事終えたあとの心地良い疲れに浸っているように見えた。
 私は額に入れられ、壁に飾られた自分の肖像画にじっと見入った。確かにそれは、私の顔の特徴をよく捉えていた。だが、それにしても、本人から見ると、案外と奇妙なものだった。その顔は、一見すると、悲しげな表情に見えないでもなかった。だが、よくよく見ていると、そんなに単純ではない、多くの入り混じった感情が隠されているような気がしてくるのだった。よろこんでいるようにも見えるし、何かをじっくりと凝視しているだけのようでもある。かと言えば、刻一刻と迫り来る死の影に脅える人のようにも映り、だが次の瞬間には、放埒ほうらつとした道化師の顔のようにも思えてくる……。
 私は自分の顔に、こんなにも長く対面したのは初めてだった。守弥が掘り出してくれた自分の表情に、こんな多面性があったのかと、しげしげと感心せずにはおられなかった。
「これを今度の美術展に出してみるつもりです」
 守弥は嬉々として言った。確かその美術展では、彼を見出したという高名な画家が、改めて彼の作品を評価することになっているそうだった。そしてその査定によって、彼が来春留学できるかどうかが決まるというようなことを、篠田が話しているのが聞こえた。

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