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三十一提督の軍艦小話(さわ)

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海軍・軍艦に関する記事をまとめました
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#日本

日本海軍の階級について (5)主計科

日本海軍の階級について (5)主計科

 今回は主計科についてです。
 前回までの記事は以下になります。

主計科 主計科では経理会計を主に担当したが、給与の一貫として被服や食事もつかさどる。いわゆる「飯炊き」も主計科の役割でそのための専任の兵が各艦船や部隊に配属されていた。

 はじめは文官だったが明治5(1872)年に武官となった。当時は主計と秘書にわかれていたが明治15(1882)年に統合された。兵卒の階級には「割烹夫」「造麺夫」

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日本海軍の階級について (4)機関科

日本海軍の階級について (4)機関科

 今回は機関科について。
 前回までの記事は以下になります。

機関科 日本海軍が誕生したころはちょうど軍艦に広く蒸気機関が採用された時期でもあった。手本としたイギリス海軍と異なり、はじめから機関を担当する要員が海軍部内に存在していたが、イギリス海軍の伝統に基づく差別的な制度をそのまま導入してしまったことが、最後まで尾を引くことになる。
 ここでは機関科に加えて、派生した整備科、工作科についてもあ

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日本海軍の階級について (3)兵科(士官)

日本海軍の階級について (3)兵科(士官)

 今回は兵科のうち士官について。
 前回までの記事は以下になります。

士官 古くは海軍士官のうち兵科だけを将校と呼んだ。ようやく大正4(1915)年12月2日に機関科の海軍士官を機関将校と呼ぶようになり、大正9(1920)年4月1日から両者をあわせて将校としそれぞれ兵科将校、機関科将校とした。昭和17(1942)年11月1日に兵科将校に統合された。
 将校以外の士官は将校相当官とされ、将校とは呼

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日本海軍の階級について (2)兵科(兵、下士官、准士官、特務士官)

日本海軍の階級について (2)兵科(兵、下士官、准士官、特務士官)

 今回は兵科のうち兵、下士官、准士官、特務士官について。
 前回の記事は以下になります。

各科 海軍軍人はその技能、職能に応じたそれぞれの科に分類されていた。もっとも一般的にイメージされるのは兵科だろう。その他、時期によって変遷はあるが飛行科、機関科、工作科、整備科、軍医科、薬剤科、看護科、主計科、造船科、造機科、造兵科、水路科、軍楽科、法務科などがあった。
 階級章には識別線があり色で判別でき

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嘉永七年のクリミア戦争

嘉永七年のクリミア戦争

 クリミア戦争はロシアと英仏の戦争ですがちょうど日本では幕末になります。ヨーロッパだけでなく太平洋でも戦闘がありました。

クリミア戦争 ペリーが浦賀にやってきた嘉永6(1853)年は、クリミア戦争が始まった年でもあった。ロシアとトルコの間で始まった戦争には、翌年早々にイギリスとフランスがトルコ側に立って参戦し、主に黒海沿岸のクリミア半島で激しく戦い、それがクリミア戦争という呼び名の由来になったの

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日本海軍艦艇命名考(6) 終戦まで

日本海軍艦艇命名考(6) 終戦まで

 日本海軍の艦艇の命名の歴史をたどっています。今回は日中戦争までの予定でしたが終戦までにしましたので最終回になります。前回の記事は以下になります。

昭和初期 昭和2(1927)年3月2日、「艦船令」別表「艦艇特務艦艇類別標準」が改定され軍艦に急設網艦が追加された。同年、敷設艦「厳島(いつくしま)」、急設網艦「白鷹(しらたか)」が命名される。
 「厳島」は名所旧跡ではあるが日清・日露戦争の殊勲艦の

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日本海軍艦艇命名考(5) 特務艇ほか

日本海軍艦艇命名考(5) 特務艇ほか

 日本海軍の艦艇の命名の歴史をたどっています。今回は特務艇を中心に小艦艇について。前回の記事は以下になります。

明治・大正時代 潜水艦の発想そのものは古くからあるが、実用化のためには主兵装としての魚雷と、潜水航行のための電池の進歩が必要だった。こうした条件が揃うのは19世紀も終わりに近いころになる。日本海軍が潜水艦の導入を決めたのは日露戦争が間近いころのことだった。当時、潜水艦の先進国はアメリカ

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日本海軍艦艇命名考(4) 水雷艇・駆逐艦

日本海軍艦艇命名考(4) 水雷艇・駆逐艦

 日本海軍の艦艇の命名の歴史をたどっています。今回は水雷艇・駆逐艦について。前回の記事は以下になります。

明治の水雷艇 自走式の魚型水雷、略して魚雷の最初のプロトタイプが実射試験が行なわれたのは1866(慶応2)年のことだった。1870年代に入る頃にはイギリスを含む列強海軍の関心を集め、この新兵器を搭載すべき新しい軍艦が模索された。試行錯誤の末、1870年代後半には小型高速な船体に魚雷発射管を搭

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日本海軍艦艇命名考(3) 軍縮条約まで

日本海軍艦艇命名考(3) 軍縮条約まで

 日本海軍の艦艇の命名の歴史をたどっています。今回はワシントン軍縮条約まで。前回の記事は以下になります。

日露戦争後 日露戦争も結末が見えつつあった明治38(1905)年8月22日から9月30日までのどこかで「艦艇命名標準」が制定されたと推測される(前回参照)。このとき実際に決まったのは、戦艦には国名、一等巡洋艦には山の名、二等巡洋艦と通報艦には川の名、砲艦には名所旧跡、といった具合だろう。この

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日本海軍艦艇命名考(2) 日露戦争まで

日本海軍艦艇命名考(2) 日露戦争まで

 日本海軍の艦艇の命名の歴史をたどっています。今回は日露戦争まで。前回の記事は以下になります。

日清戦争後 日清戦争以前の帝国議会では民権派の勢力が強く、政府が提出する海軍充実予算はたびたび否決された。明治26(1893)年度予算案も修正議決されたが明治天皇が宮廷費から海軍充実のために支援する意向を示した結果一転して予算が認められ、戦艦を含む軍艦の建造に着手したが完成は日清戦争後になる。

 日

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日本海軍艦艇命名考(1) 明治初期

日本海軍艦艇命名考(1) 明治初期

 日本海軍の艦艇の命名の歴史をたどってみたいと思います。まずは日清戦争まで。

幕府・諸藩海軍 慶応4(1868)年4月28日(旧暦)、江戸湾で幕府軍艦「富士山」「翔鶴」「朝陽」「観光」の4隻が新政府に引き渡された。これが帝国海軍の発祥といわれている。函館戦争で榎本艦隊と相対した新政府側艦隊には薩摩や長州、佐賀といった諸藩の軍艦が加わっていた。むしろ数的には諸藩軍艦の方が主力だった。函館戦争後、版

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幻の日本海軍艦艇命名標準

幻の日本海軍艦艇命名標準

 日本海軍では、艦艇を命名する際に艦種ごとに何に基づいて命名するかを定めていた。例えば戦艦には旧国名、一等巡洋艦には山の名、二等巡洋艦には川の名をつける、といった具合である。
 ということが、界隈では常識のように語られている。ものの本にもウィキペディアにもそのように記載されている。ところが不思議なことに管見のかぎりそれを公式に規定していた法令や文書は見たことがない。実例をみていくと、巷間でいわれて

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