三十一提督(みそひとていとく)

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海軍大学校「卒業」とは

 旧日本海軍の最高学府として「海軍大学校」がありました。勘違いしている人が多いようですが、今の大学とも防衛大学校とも位置づけは異なります。現在、かつての海軍大学校に対応するのは海上自衛隊幹部学校もしくは統合幕僚学校になるでしょう。海軍大学校についてみていきます。 海軍大学校の創設 明治のはじめ、海軍が創設されたころには海軍士官を養成するための海軍兵学校がまず整備されたが、艦船を運用するのが精一杯で戦術や戦略の教育にまで手が回らなかった。士官の再教育がようやく検討課題に挙げら

    • 英国軍艦ドレッドノート4代

       日本海軍や自衛隊ではほとんど例がないのですけれど、欧米の軍艦では抽象的な一般名詞や形容詞を艦名にすることがけっこうあります。表題のドレッドノート Dreadnought もそのひとつで、もともとは「恐れを知らない」といった意味だそうです。  ふつう、イギリス軍艦ドレッドノートと言えばまず 1906年に進水した革新的な戦艦を思い浮かべますが、その艦名自体は特に限定されない形容詞にすぎないため、長いイギリス海軍の歴史を振り返ってみると多数の同名艦が存在していました。ウィキペディ

      • 皇族附海軍武官

         以前、皇族の海軍武官に関する記事を書きました。  海軍武官である皇族には皇族附海軍武官が附属し、俗に「御附武官」などと呼ばれました。阿川弘之の著作では皇族と御附武官の駆け引きが描写されています。 制度のはじまり 明治のはじめ、皇族が政府や軍の要職を多く占めていた時期にはかえってこうした御附武官の制度は確立していなかった。海軍においてはじめて御附武官が置かれたのは明治22年、海軍兵学校生徒だった山階宮菊麿王と華頂宮博恭王(のち伏見宮)が退校してドイツに留学することになった

        • 依託学生とROTC

          海軍委託学生 日本海軍では、特定の学科で学ぶ大学生のうち志願するものを依託学生に採用して、卒業後に海軍士官に任官させた。東京帝国大学学生で海軍造船学生だった堀元美(のち海軍技術大佐)によると、一部の科目が必修とされたことと、ときどき海軍省に出頭してわずかな手当を受け取ること以外は普通の学生と全く変わらない日常だったという。一種の青田買いだったとも言える。  依託学生制度は明治の初めに技術学生を工部大学校(現在の東京大学工学部)に派遣して教育を依託したことに始まり、のち医学

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        • 三十一提督の軍艦小話(さわ)
          198本
        • 日本海軍軍人伝
          115本

        記事

          謎の第102号哨戒特務艇

          戦後の掃海業務 昭和20年、敗戦によって生き残った海軍艦艇は戦闘任務を解除されましたが、海外からの邦人引揚と沿海の掃海に引き続き従事することになりました。10月1日、こうした艦艇は海軍籍から除籍した上でそれぞれ特別輸送艦、掃海艦に指定することとされましたが、実際に指定がされたのは海軍省が廃止されてその事務が新設の第二復員省に引き継がれた12月1日が最初でした。  第二次大戦中に日本が防御のために近海に敷設した機雷はおよそ5万発、さらに米軍が大戦末期に空中投下で敷設した機雷が

          特修兵

           某ウィキペディアで「特修兵」を検索してみたら独立項目はなく「下士官」の歴史の中に埋め込む形で言及されていました。経緯は追えますがその意義や運用については読み取りづらく、そのためここでまとめてみることにします。 特修兵とは 現在の社会でも資格を持っていることが仕事に有利に働くことは多い。職種によっては資格が前提であることがある。公的な資格でなくとも組織内で内部資格のような制度を設けている場合もあるだろう。旧日本海軍でもそうした制度があり、海軍部内の学校などで所定の教科や訓練

          防護巡洋艦 笠置、座礁する

           南北朝時代に後醍醐天皇が立て籠もって鎌倉幕府に抵抗したのが京都府南部の笠置山でした。それにちなんで笠置と命名された軍艦が2隻ありますが、その初代の話です。 防護巡洋艦笠置 日清戦争の後、清国から得た賠償金を主な原資として日本海軍は大々的な軍備拡張に乗り出した。仮想敵国はロシアである。軍艦の国産はすでに始まっていたが、清国と違ってロシアは欧州列強の一角を占め、英国には及ばないが日本や清国と比べると格段に近代的な艦船を保有していた。日本の技術レベルで国産できる軍艦では太刀打ち

          防護巡洋艦 笠置、座礁する

          舞鶴鎮守府の復活

           舞鶴鎮守府は明治34(1901)年に初めて設置されましたが、大正12(1923)年に要港部に格下げされ、再び鎮守府が置かれたのは昭和14(1939)年のことでした。 第四の鎮守府 横浜にはじめての鎮守府が置かれたのは明治9(1876)年で西南戦争が起こる前年のことでした。この東海鎮守府とあわせて海軍では長崎に西海鎮守府を置きたいという要望があったのですが財政上の問題で見送られました。当時から海軍では日本周辺海域を四方面に区分してそれぞれ鎮守府(東西南北)を置くという構想を

          海軍の終わらせかた

           昭和20(1945)年8月、日本はポツダム宣言を受け入れるという決断をしました。その結果、日本海軍は消滅を運命付けられたわけですが、170万もの将兵を抱えていた日本海軍は一朝一夕に雲散霧消したわけではありません。 海軍を終わらせよ 終戦前、軍部がポツダム宣言の受諾に抵抗した理由のひとつに、日本軍の武装解除があった。宣言は単なる武装解除のみならず軍隊の解体まで含んでいた。主権国家が独立を保つためには軍隊による自衛力が必要不可欠と信じてやまない軍部には受け入れがたかったのであ

          鎮守府司令官の話

          「鎮守府の長は司令長官だよ」というツッコミはちょっと待ってください。ここで取り上げるのは司令長官の下に置かれた司令官です。 はじめに - 艦船の本籍 日本海軍では、艦船はいずれかの鎮守府に本籍を置いていた(特務艇や雑役船を除く)。たとえその艦船が艦隊に配属されたとしても本籍は変わらない。艦船令という法規にはわざわざそうした意味の但し書きがされていた。  艦隊編制は平時には毎年変更され、年によって編入される艦は入れ替わった。ごく大まかに言って艦隊に配属されるのは半分くらいで

          日本軍と法令

           戦前の日本では法令にいくつかの段階がありました。軍隊も法令に基づく機関なので無縁ではいられません。 公文式 法令形式が体系的に規定されたのは、明治19年に制定された公文式である。法律、勅令といった法令の公布形式はここではじまった。面白いのは、勅令という法令を定める公文式自体が明治19年勅令第1号とされていて、自分で自分を定義する形になっていることだ。こうした事例はのちにも見られることになる。  この時点で公文式が制定されたのは、憲法の発布と帝国議会の開催を控えていたから

          臨時海軍建築部

           海軍将官の履歴を見ていると「臨時海軍建築部」という組織をちょくちょく見かけます。「臨時」だし、兼職ばかりで専任者はほとんど見かけず、よくある短期間置かれた限られた任務の組織なんだろうとあまり深く考えずにいたのですが、それにしてはあまりによく見かけるので改めて調べてみたことをまとめました。 舞鶴鎮守府 海軍の地方組織の最上位組織になる鎮守府ははじめ横浜に置かれて東海鎮守府と称したが、日本西部に西海鎮守府を置きたいという要望は早くからあった。海軍としては日本全体を四方面にわけ

          海軍水路官

           海軍士官にはかつて水路官、のちに水路科士官と呼ばれた士官がいました。あまり知られていないのは、人数が極端に少なかったからです。 水路部 軍艦に限らず船が航海するときに欠かせない海図を作成しているのは現在の日本では海上保安庁だが、戦前は海軍が担当していた。海図の作成は測量作業と切り離せず、深度や航路、標識を測量して海図に落とし込むという手順が必要になる。幕末に日本を訪れたペリー艦隊は江戸湾の測量をおこなった。維新後に朝鮮と江華島事件を引き起こした軍艦雲揚も、朝鮮半島やロシア

          「陸軍属」と「陸軍軍属」はイコールじゃない

           ちょっと前のことですが、親族の軍歴を取り寄せてみたという記事がお勧めに流れてきたので読みました。その記事では陸軍の下士官として勤務したあと除隊して陸軍軍属になった、と記されていました。取り寄せた軍歴が個人情報を隠した形で掲載されていて、確かにそこには「陸軍属」に任じられたと書いてあります。  おそらく、書かれた方は勘違いしています。「陸軍属」は「陸軍軍属」とはイコールではありません。包含関係でいうと、「陸軍属」は「陸軍軍属」に含まれますが、「陸軍軍属」は「陸軍属」とは限り

          「陸軍属」と「陸軍軍属」はイコールじゃない

          「副官」について

           海軍軍人伝を連載しているあいだにいろいろと調べなくちゃいけないことがありました。そのいくつかを紹介しようと思います。  まずは「副官」。 副官とは 副官という役職は現在の自衛隊にも残っているので、現役の自衛隊員や経験者の中にはお馴染みで説明不要というひともいるだろう。しかし外部では誤解されがちだ。もっとも多いのは「副司令官」との混同だろう。マンガ「ファントム無頼」に「副官」が登場するが、どうも「副司令」を副官と呼んでいるのではないかという漠然とした疑問が自分の中でずっと拭

          海軍軍人伝 大将(17) 井上成美

           これまでの海軍軍人伝で取り上げられなかった大将について触れていきます。今回は一応の最終回になり、井上成美をとりあげます。  前回の記事は以下になります。 イタリア駐在武官 井上成美は明治22(1889)年12月9日に仙台に生まれた。父親はもと幕臣で、維新後に官僚となって宮城県庁に職を得て移り住んだがその後退職している。井上家は子だくさんだったが生活は苦しく、父親から一番上の男子のほかはいい学校にはやれないと告げられた井上は「学費の要らない海軍兵学校に進みます」と答えた。兄

          海軍軍人伝 大将(17) 井上成美