三十一提督(みそひとていとく)

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定員表を読んでみよう (1) 共通/巡洋艦利根型

 艦内編制令の内容と、海軍定員令の別表(定員表)を見比べてみるとけっこう細かいことまで読み取れることがわかりましたので、実際にやってみようと思います。 艦内編制令 艦内編制令の内容については以前に記事を公開しているのであらかじめこちらに目を通していただければありがたい。  一方、常備編成(=分隊の構成)についてはあまり詳しく触れず一部の例を挙げるに留めていた。すべてを説明しているとあまりに長くなりすぎるからだったのだけれど、関連する条文を末尾に資料として添付したので参照し

    • 哲ちゃんとベルマーク

       今回はちょっと普段とはおもむきを変えて、エッセイというか昔語りを少々。 哲ちゃんとベルマーク  大学時代からの友人に哲ちゃんがいた。附属高校から大学に進んだ僕らは、高校でも同窓生だったはずなのだがそのころはあまり接点がなく、ただ親しい友人のそのまた友人という立ち位置で存在は知っていたという程度の関係だった。実際に一緒に遊ぶようになったのは大学に入ってからでそれも友人を含むグループで遊びにいくときに声がかかるくらいで、マンツーマンでどこかに出かけるなんてことは皆無だった。

      • Wikipedia の潜水母艦長鯨艦長リストについて

        最近、太平洋戦争の主要軍艦艦長リストというのを作成しているのですが、その過程で Wikipedia 「長鯨(潜水母艦)」の艦長リストに誤り(と考えられるもの)を見つけたので、まとめます。 歴代艦長問題の記事には「歴代艦長」という項目があります。出典は「艦長たちの軍艦史」「日本海軍史 将官履歴」「官報」とされています。 ここで指摘するのはそのうち以下の部分です。 この時期はまだ辞令が官報に掲載されており(日中戦争が始まると部内限りの海軍辞令公報に移され官報には掲載されなく

        • イギリス王位継承ルール

           最近、ようやく日本の皇室について「皇族の数を確保するための方策」の議論が始められることになりました。ここでひとつ、参考情報としてイギリスの王位継承ルールをみてみましょう。以下の記事も参考にしてください。 基本ルール 王位継承順位を決定するルールは 1.兄弟間では男子優先。男女それぞれの間では年長順 2.ある人物は自分自身を含む子孫全体の継承権を代表する ざっくりまとめてしまうと上記ふたつのルールに帰着します。そのほか「正式な結婚」による子供であることが必要なのですが順

        定員表を読んでみよう (1) 共通/巡洋艦利根型

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        • 三十一提督の軍艦小話(さわ)
          201本
        • 日本海軍軍人伝
          116本

        記事

          某名作アニメ映画の「巡洋艦艦長」考察

           先日、ついったーのタイムラインに「レイテ沖で戦死した巡洋艦の艦長が大佐どまりのはずがない」というメッセージが流れてきました。これは「火垂るの墓」の主人公の父親が「レイテ沖で戦死した巡洋艦の艦長だった大佐」という設定でありながらその後孤児として困窮したという展開に対し「海軍は何をしとんねん」というツッコミから派生したものなのですが、この1行からインスパイアされてちょっと調べてみたのでまとめました。ネタに困っていたのでちょうどよかった。  なお最初に白状しておきますが、実はわ

          某名作アニメ映画の「巡洋艦艦長」考察

          海軍大学校「卒業」とは

           旧日本海軍の最高学府として「海軍大学校」がありました。勘違いしている人が多いようですが、今の大学とも防衛大学校とも位置づけは異なります。現在、かつての海軍大学校に対応するのは海上自衛隊幹部学校もしくは統合幕僚学校になるでしょう。海軍大学校についてみていきます。 海軍大学校の創設 明治のはじめ、海軍が創設されたころには海軍士官を養成するための海軍兵学校がまず整備されたが、艦船を運用するのが精一杯で戦術や戦略の教育にまで手が回らなかった。士官の再教育がようやく検討課題に挙げら

          海軍大学校「卒業」とは

          英国軍艦ドレッドノート4代

           日本海軍や自衛隊ではほとんど例がないのですけれど、欧米の軍艦では抽象的な一般名詞や形容詞を艦名にすることがけっこうあります。表題のドレッドノート Dreadnought もそのひとつで、もともとは「恐れを知らない」といった意味だそうです。  ふつう、イギリス軍艦ドレッドノートと言えばまず 1906年に進水した革新的な戦艦を思い浮かべますが、その艦名自体は特に限定されない形容詞にすぎないため、長いイギリス海軍の歴史を振り返ってみると多数の同名艦が存在していました。ウィキペディ

          英国軍艦ドレッドノート4代

          皇族附海軍武官

           以前、皇族の海軍武官に関する記事を書きました。  海軍武官である皇族には皇族附海軍武官が附属し、俗に「御附武官」などと呼ばれました。阿川弘之の著作では皇族と御附武官の駆け引きが描写されています。 制度のはじまり 明治のはじめ、皇族が政府や軍の要職を多く占めていた時期にはかえってこうした御附武官の制度は確立していなかった。海軍においてはじめて御附武官が置かれたのは明治22年、海軍兵学校生徒だった山階宮菊麿王と華頂宮博恭王(のち伏見宮)が退校してドイツに留学することになった

          依託学生とROTC

          海軍委託学生 日本海軍では、特定の学科で学ぶ大学生のうち志願するものを依託学生に採用して、卒業後に海軍士官に任官させた。東京帝国大学学生で海軍造船学生だった堀元美(のち海軍技術大佐)によると、一部の科目が必修とされたことと、ときどき海軍省に出頭してわずかな手当を受け取ること以外は普通の学生と全く変わらない日常だったという。一種の青田買いだったとも言える。  依託学生制度は明治の初めに技術学生を工部大学校(現在の東京大学工学部)に派遣して教育を依託したことに始まり、のち医学

          謎の第102号哨戒特務艇

          戦後の掃海業務 昭和20年、敗戦によって生き残った海軍艦艇は戦闘任務を解除されましたが、海外からの邦人引揚と沿海の掃海に引き続き従事することになりました。10月1日、こうした艦艇は海軍籍から除籍した上でそれぞれ特別輸送艦、掃海艦に指定することとされましたが、実際に指定がされたのは海軍省が廃止されてその事務が新設の第二復員省に引き継がれた12月1日が最初でした。  第二次大戦中に日本が防御のために近海に敷設した機雷はおよそ5万発、さらに米軍が大戦末期に空中投下で敷設した機雷が

          特修兵

           某ウィキペディアで「特修兵」を検索してみたら独立項目はなく「下士官」の歴史の中に埋め込む形で言及されていました。経緯は追えますがその意義や運用については読み取りづらく、そのためここでまとめてみることにします。 特修兵とは 現在の社会でも資格を持っていることが仕事に有利に働くことは多い。職種によっては資格が前提であることがある。公的な資格でなくとも組織内で内部資格のような制度を設けている場合もあるだろう。旧日本海軍でもそうした制度があり、海軍部内の学校などで所定の教科や訓練

          防護巡洋艦 笠置、座礁する

           南北朝時代に後醍醐天皇が立て籠もって鎌倉幕府に抵抗したのが京都府南部の笠置山でした。それにちなんで笠置と命名された軍艦が2隻ありますが、その初代の話です。 防護巡洋艦笠置 日清戦争の後、清国から得た賠償金を主な原資として日本海軍は大々的な軍備拡張に乗り出した。仮想敵国はロシアである。軍艦の国産はすでに始まっていたが、清国と違ってロシアは欧州列強の一角を占め、英国には及ばないが日本や清国と比べると格段に近代的な艦船を保有していた。日本の技術レベルで国産できる軍艦では太刀打ち

          防護巡洋艦 笠置、座礁する

          舞鶴鎮守府の復活

           舞鶴鎮守府は明治34(1901)年に初めて設置されましたが、大正12(1923)年に要港部に格下げされ、再び鎮守府が置かれたのは昭和14(1939)年のことでした。 第四の鎮守府 横浜にはじめての鎮守府が置かれたのは明治9(1876)年で西南戦争が起こる前年のことでした。この東海鎮守府とあわせて海軍では長崎に西海鎮守府を置きたいという要望があったのですが財政上の問題で見送られました。当時から海軍では日本周辺海域を四方面に区分してそれぞれ鎮守府(東西南北)を置くという構想を

          海軍の終わらせかた

           昭和20(1945)年8月、日本はポツダム宣言を受け入れるという決断をしました。その結果、日本海軍は消滅を運命付けられたわけですが、170万もの将兵を抱えていた日本海軍は一朝一夕に雲散霧消したわけではありません。 海軍を終わらせよ 終戦前、軍部がポツダム宣言の受諾に抵抗した理由のひとつに、日本軍の武装解除があった。宣言は単なる武装解除のみならず軍隊の解体まで含んでいた。主権国家が独立を保つためには軍隊による自衛力が必要不可欠と信じてやまない軍部には受け入れがたかったのであ

          鎮守府司令官の話

          「鎮守府の長は司令長官だよ」というツッコミはちょっと待ってください。ここで取り上げるのは司令長官の下に置かれた司令官です。 はじめに - 艦船の本籍 日本海軍では、艦船はいずれかの鎮守府に本籍を置いていた(特務艇や雑役船を除く)。たとえその艦船が艦隊に配属されたとしても本籍は変わらない。艦船令という法規にはわざわざそうした意味の但し書きがされていた。  艦隊編制は平時には毎年変更され、年によって編入される艦は入れ替わった。ごく大まかに言って艦隊に配属されるのは半分くらいで

          日本軍と法令

           戦前の日本では法令にいくつかの段階がありました。軍隊も法令に基づく機関なので無縁ではいられません。 公文式 法令形式が体系的に規定されたのは、明治19年に制定された公文式である。法律、勅令といった法令の公布形式はここではじまった。面白いのは、勅令という法令を定める公文式自体が明治19年勅令第1号とされていて、自分で自分を定義する形になっていることだ。こうした事例はのちにも見られることになる。  この時点で公文式が制定されたのは、憲法の発布と帝国議会の開催を控えていたから