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海軍大学校「卒業」とは

 旧日本海軍の最高学府として「海軍大学校」がありました。勘違いしている人が多いようですが、今の大学とも防衛大学校とも位置づけは異なります。現在、かつての海軍大学校に対応するのは海上自衛隊幹部学校もしくは統合幕僚学校になるでしょう。海軍大学校についてみていきます。


海軍大学校の創設

 明治のはじめ、海軍が創設されたころには海軍士官を養成するための海軍兵学校がまず整備されたが、艦船を運用するのが精一杯で戦術や戦略の教育にまで手が回らなかった。士官の再教育がようやく検討課題に挙げられるようになったのは明治20年近くになった頃だった。「海軍制度沿革」によると明治19(1886)年8月17日に海軍大臣の命で「将校並機技部士官及生徒教育法取調委員」が任命されて調査研究がはじまった。アメリカで海軍大学校 Naval War College が設立されたのが1884年、マハン大佐が校長に就任したのが1886年のことでありこうした動きに日本海軍も刺激されたことだろう。
 明治21(1888)年、海軍大学校官制と海軍大学校条例が制定され、8月28日に東京築地に海軍大学校が開設された。「官制」(勅令)と「条例」(海軍大臣達)は2年後に「条例」(勅令)と「規則」(海軍大臣達)と変わる。しかしこの時期の海軍大学校でおこなわれていた教育は兵術ではなく砲術長・水雷長・航海長・機関長をめざしたもので後の術科学校高等科学生に相当する内容だった。明治23(1890)年の「条例」ではじめて甲号学生以下の学生の種別が規定されたが、のちの甲種学生と比較するとそもそも目的が異なり同列には置けない。明治26(1893)年には将校科学生と名称が変更されるが内容に大きな違いはない。日清戦争後の明治30(1897)年に至り将校科甲種学生と改称されるとともに「枢要の職員もしくは高級指揮官の素養をなすため高等の兵学およびその他の学術を教授」するとされ、はじめて高級指揮官教育が始まった。日露戦争後の明治40(1907)年に単なる甲種学生と改称して太平洋戦争中まで存続したが甲種学生の第何期生という数え方は明治30年の将校科甲種学生からはじまっている。教育内容から妥当だろう。甲種学生課程は明治30年に2年間と定められ、終戦まで変わらなかった。少尉から中尉にかけて学ぶ陸軍大学校とは異なり、海軍大学校甲種学生として入校できるのは少なくとも10年の実務経験をもつ古参大尉または初任少佐で、2年の課程のうち1年を大尉、1年を少佐として過ごす例が多かった。マンガ「ジパング」に「あの若さで少佐とは海大出のエリートに違いない」という台詞があったが海大甲種学生修了時にはほとんどの場合少佐に昇進済みなので、「海大出」であることをもって少佐への昇進が早まるということはあり得ない。

海軍大学校乙種学生

 海軍大学校で教育を受けるのは士官に限定されていたので「学生」と呼ばれる(下士官以下は「練習生」)。明治23(1890)年の条例で初めて学生の区分が規定され、「甲号学生」「乙号学生」「丙号学生」が設けられたが既述の通り当時の教育内容は術科教育中心で、種別の違いは対象者の階級による(甲号は兵科大尉少佐、乙号は機関科大尉少佐相当、丙号は兵科機関科の少尉および同相当)。明治26(1893)年には乙号、丙号学生が廃止されて機関学生が新設されたが、このときはまだ術科教育時代である。
 明治30年、海軍大学校の教育内容が大きく変わるのに合わせて学生の区分も改定され、将校科甲種学生・将校科乙種学生・機関科学生・選科学生の4種となる。乙種学生は従来の術科教育をある程度引き継いだが、専門教育はかねて練習生に対する教育をおこなっていた砲術練習所や水雷術練習所に移し、その前提となる一般教養(語学・数学・物理学など)を乙種学生に教授した。海軍大学校乙種学生と砲術・水雷術練習所学生(のち砲術・水雷学校高等科学生)はセットで続けて履修するのが通例だった。それぞれ6ヵ月、通算1年の課程は大正7(1918)年に乙種学生が廃止されて術科学校高等科学生課程が1年に延長された。

海軍大学校航海学生


 航海術については実地教育が重視されたのか陸上固定施設の設置は遅れ、練習生教育は運用術練習艦に指定された軍艦でおこなわれてきたがやがてそうした教育も中絶した。士官教育は海軍大学校が担当することになり、はじめ乙種学生がその役割を持っていたが明治40(1907)年に専修学生(航海科・機関科)が設けられた。「海軍大学校専修学生」と聞くと一見何か相当高度な教育を受けているかのように錯覚するが、実際にはのちの「海軍航海学校航海学生」と同じものと考えてよい。航海科専修学生は大正7(1918)年に海軍大学校航海学生と改称し、大正15年に運用術練習艦航海学生に移されて海軍大学校での教育を追えた。運用術練習艦が陸上施設の海軍航海学校に変わるのは昭和9(1934)年のことである。

海軍大学校機関学生

 はじめ「機関官」と称されていたのちの「機関科将校」については、そもそも将校養成課程である生徒教育ですら兵学校とは別の機関学校による教育から、兵学校生徒からの採用、再度機関学校による教育と制度が揺れて定着するには時間がかかった。士官教育についてはそれに輪をかけた朝令暮改ぶりだった。また機関科将校は兵科将校と異なり艦全体・部隊全体を指揮する必要はなく目の前の機関や機械類を操作することに専念すれば足りるという風潮が(政策立案にあたる兵科将校の側に)強く、こうした制度の必要性は軽視されがちだった。海軍大学校には明治26(1893)年から機関学生が置かれ、多少の制度の変遷はありながら大戦中まで続いた。ただし目的については「要職に充つるに適する素養に必要なる高等の機関術その他の学術を修習」(大正7年海軍大学校令)とあるくらいで厳密に規定されていない。のち将官に昇進するような機関科将校は大尉時代に海軍大学校機関学生を経験している人物が多いが、必須というわけではなく機関学生を経ないで機関長、将官となっている例もみられる。機関学生と同時期の海軍大学校に機関科専修学生が置かれていたこともあり(どちらかというと技術的な教育を主としていた)、また生徒教育にあたる海軍機関学校で短期間ながら学生教育をおこなっていたこともある(大正3年から大正9年まで)。機関に関する術科教育を担当する海軍工機学校は大正3年にいったん廃止されたが昭和3年に復活し、ほかの術科学校に類似の学生教育をおこなったが「高等科学生」が存在しないのが目をひく。海軍大学校の機関学生が高等科学生相当とみられていたのだろうか。
 機関科将校の教育については主体となる組織がみあたらず、海軍大学校、海軍機関学校、海軍工機学校などにばらばらに担当させていたように見え、全体像が掴みにくい。教育法の研究をおこなっていたのは海軍工機学校だが、組織論までは踏み込まなかったようだ。

海軍大学校軍医学生

 明治27(1894)年、海軍軍医学校の廃止にともない軍医教育のための軍医学生が設けられたがわずか4年後に廃止され、軍医の養成は大学(東京帝大など)に依存することになる。軍医の再教育のためにのち海軍軍医学校が再度設置された。

海軍大学校選科学生

 明治30年に新設された。いわばワイルドカードで決まった課程や期限はなく、海軍大臣がその都度習得するべき分野を指定して研究自習させる。必要に応じ部外の学校に委託できることも特徴で、例えば「火薬研究を命じられて東京帝大工学部で教授の指導を受けながら研究に従事する」「組織論の研究を命じられて東大法学部を受講する」「英語研究を命じられてケンブリッジ大学に留学する」などがあり得た。

海軍大学校の終焉

 日露戦争などの戦時、海軍大学校は教育を中断して学生は軍務に復帰し、多くは従軍した。日中戦争が始まったときにも同じことが起こった。その後学生教育は再開したが太平洋戦争が激しくなると教育は短縮され、校長は兼務が多くなり、専任の校長は昭和17(1942)年9月15日に病死した稲垣生起校長(海軍中将)が最後になった。昭和20(1945)年5月にはついに海軍大学校が閉鎖され(最後の校長は小沢治三郎 - 軍令部次長の兼職)、学生や職員は本土決戦の準備に動員された。一方で陸軍大学校は戦争が始まるとその規模が一挙に拡大し、参謀の大量養成がなされたという。この対比は興味深い。
 海軍大学校は閉鎖状態で職員の配置もないまま終戦をむかえ、海軍の解体とともに正式に廃止された。

おわりに

 ウィキペディアの文句ばかり言ってるようで気がひけるのですが、「学歴」として「海軍大学校卒業」を挙げることに個人的には違和感を感じます。確かに甲種学生は海軍大学校で教授される課程の根幹であり、ある人物の経歴の上で重視するのは理解できます。しかし海軍大学校ではそれ以外のメニューもあり甲種学生だけ取り上げるのも片手落ちだと思います。海軍大学校では甲種学生のほかにも乙種学生、専修学生、機関学生などの課程が用意されており、これらの課程は多少の関連はあったとしても基本的には独立です。海軍大学校全体を通じる一貫したカリキュラムのようなものは存在せず、それぞれの課程の卒業はあっても「海軍大学校」の卒業というのは定義のしようがありません。
 あまりに甲種学生に注目する結果、それ以外の課程もそれに付随するものと誤解されるのか、「乙種学生修了」「専修学生修了」などを「海軍大学校卒業」と表現する記述が散見されます。既述のとおり乙種学生は術科学校高等科学生の前提になる一般教養課程、専修学生は実質的にはのちの航海学生です。これらを甲種学生といっしょくたにするのは無理があります。


 前の記事からひと月近く間があいてしまいました。海軍大学校の学生課程については意外に変遷が激しくいつか整理しなきゃと思っていたのですが、今回ちょうど整理できたのでまとめてみたものです。今後については一応構想はいくつかあるのですが、頭の中でこねくり回すばかりでまだ一向に形にはなっていません。どうにか月一回の公開は最低ラインとして死守したいと思っています。
 表には出ませんが裏ではやたらと時間のかかることをずーっとやっています。やたらと手を広げるのは命取りだとわかっているはずなのですが。

 ではもし機会がありましたらまた次回お会いしまししょう。

(カバー画像はアメリカ海軍大学校博物館 US Naval War College Museum, Newport, Rhode Island)

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