某名作アニメ映画の「巡洋艦艦長」考察
先日、ついったーのタイムラインに「レイテ沖で戦死した巡洋艦の艦長が大佐どまりのはずがない」というメッセージが流れてきました。これは「火垂るの墓」の主人公の父親が「レイテ沖で戦死した巡洋艦の艦長だった大佐」という設定でありながらその後孤児として困窮したという展開に対し「海軍は何をしとんねん」というツッコミから派生したものなのですが、この1行からインスパイアされてちょっと調べてみたのでまとめました。ネタに困っていたのでちょうどよかった。
なお最初に白状しておきますが、実はわたしは「火垂るの墓」をちゃんと観たことがありません。
「戦死した巡洋艦の艦長が大佐どまりのはずがない」
まずこのメッセージについて多少補足しておきましょう。基本的に日本海軍では巡洋艦の艦長には大佐をあてることにしています。また戦時中には例外的に大佐より1階級高い少将があてられることもありました。そして戦死すると少なくとも1階級進級(特進)する慣習になっており、従って「戦死した巡洋艦の艦長」は死後少なくとも少将、場合によっては中将の階級を得るはずだ、というのがこの趣旨であります。
巡洋艦の艦長は大佐
さて巡洋艦を含む大型軍艦の艦長は基本的に大佐をあてることになっています。中佐でも少将でもなく、大佐です。ところが「巡洋艦艦長には大佐をあてる」という包括的な規定は存在しません。「海軍定員令」という法令に附属する別表で、個々の艦船に対してそれぞれの職員にどの階級の者を何名あてるかをいちいち規定しているのです。
実例をみてみましょう。レイテ海戦の直後にあたる昭和19年10月31日の時点でまとめられた「内令提要」という文書で海軍定員令の内容が確認できるのですが、その別表のうち「二等巡洋艦定員表その5」で巡洋艦利根・筑摩の定員を定めています。そのうち士官の部分だけを抜き出してみると以下のようになります。
ここに「艦長 大佐 1」とあるのが「巡洋艦の艦長は大佐」の根拠となります。もちろん他の表も参照して確認しないと巡洋艦全般については何もいえないのですが、結論だけをまとめると戦艦・練習戦艦・一等巡洋艦・二等巡洋艦・練習巡洋艦・航空母艦の艦長はすべて「大佐 1」でした。これ以外の艦艇をみていくと例えば潜水母艦迅鯨・長鯨の艦長は大佐ですが同駒橋の艦長は中少佐、敷設艦津軽の艦長は大佐、同厳島は大中佐、同八重山は中佐といった具合に意外に細かく定められていることが見てとれます。
少将が艦長はあり得ないのか
海軍定員令別表から、巡洋艦の艦長が大佐であることの根拠はわかりました。ところが戦時中には少将が艦長をつとめた例が散見されます。巡洋艦では比較的例は少なく、戦艦や航空母艦での例のほうが多いのですが実在したことは確かです。ではその根拠はというと「海軍定員令」の本文、第10条に以下の規定があります。
必要に応じて「官職階」(階級のこと)の規定と異なる配員をしてもよいとの規定になっており、つまり別表上艦長は大佐と定められていたとしても少将をあてることが許されています。ただし上級者を下級の位置にあてる(例えば少将を大佐職である艦長にあてる)のは「やむを得ない場合にかぎる」と限定されています。
実はこの規定はもともと「戦時に必要な場合は上級者を下級の地位にあてることができる」と明確に規定されていたのですが、のちにより一般的な説明に書き換えられました。
実際の運用をみてみると、平時にはこうした規定はかなり厳密に運用されていて大佐から少将に進級すると例外なく艦長を退任しています。ということはつまり「階級の進級」と「人事異動」が同時におこなわれるということを意味します。平時にはだいたい年に1度、11月から12月ごろに定期進級と人事異動がまとめて実施される例でした。たとえば昭和11(1936)年には12月1日に進級とそれにともなう人事異動が実施されています。この異動が教育年度、つまり訓練サイクルの変わり目になりました。
対米戦争が始まった昭和17(1942)年以降は進級が相対的に早くなり、定期進級が年2回になりました。年末の進級のほかに5月ごろにも進級がおこなわれるようになり、これは終戦まで続きます。その一方で、進級にあわせて一斉に人事異動をすることが難しくなります。例えば艦艇で乗員の3分の1が一度に交代すれば短期的には練度の低下は免れません。平時ならば1年かけて訓練で練度を上げていけばいいことですが、戦時にはそうもいきません。かといって交代をまったくしないというわけにもいかず、人員の交代は練度に大きな影響を及ぼさない程度の小規模なものを五月雨式に実施するというかたちにならざるを得ません。艦長も例外ではなく、たとえば定期進級により艦長である大佐が少将に進級したとして、ある部隊を構成する艦艇の艦長を一斉に交代させるわけにいかなくなります。こうして定期進級後には階級章が少将にかわりながら艦長職にとどまる「少将艦長」が多く生まれることになります。こうした「少将艦長」はその後数ヶ月以内に適当な職務に移って艦を降りるのが通例でした。より具体的には次の定期進級まで、つまり半年以内に艦長を降りていたようです。
日本側の呼称でいう捷号作戦あるいは比島海戦は、昭和19(1944)年10月22日の主力部隊出撃ではじまり25日の大規模な戦闘を経て28日に主力の残存部隊がブルネイに帰投していったん終了しました。実は昭和19年秋の定期進級はその直前にあたる10月15日に実施されており、戦艦や航空母艦の艦長の多くが少将に進級していました。巡洋艦艦長でこのとき進級した者は多くありませんが、参加部隊のなかでは一等巡洋艦妙高と愛宕の艦長が少将に進級しています。
戦死による進級
海軍軍人の進級は「海軍武官進級令」「海軍兵進級規則」で規定されています。後者は前者の規定を準用するとしている部分が多いのでもっぱら「海軍武官進級令」に依拠して説明しましょう。まず進級は「級を逐いその官階を歴進」(第2条)させるとしており、つまり階級を順番に進級するもので「飛び級」はしないと定められています。また第4条で進級に必要な勤務年数(実役停年)を定めておりこの年数を経たあとでないと進級できません。しかし第17条以降(第4章)ではこうした規定に依らない「特殊進級」を定めており、特に第18条では
とあり、この中で第2号が戦死による進級の根拠になるわけですが、進級のタイミングが「危篤に陥った」ときとしているのが目をひきます。実際には戦死後であっても建前としては「危篤に陥ったがまだ生きている」時点にさかのぼって進級させるということになります。
さて戦死者は少なくとも1階級、特に功績が顕著な場合は2階級「特殊進級」させる運用が通例でしたが「海軍武官進級令」の規定では「進級させることができる」としていて必ず進級させるわけではありません。実のところ、日清戦争や日露戦争では戦死しても進級させないのが普通でした。旅順口閉塞で著名な広瀬武夫中佐は戦死によって少佐から進級されたのですが「軍神」扱いされたことによる特別な措置でした。陸軍の橘周太中佐も同様です。これがのちの前例になりました。なおこうした措置は下に手厚く上に薄くなる傾向があり士官と比べると下士官兵では早く一般化したようです。余談ですが、戦死後の2階級特進は上海事変のいわゆる「爆弾三勇士」がはじまりと言われ、先の戦争では特に功績が顕著なものに適用されていたのが末期には特攻戦死者は例外なく2階級特進とされインフレの傾向が見られます。この傾向は戦後も続き、自衛隊や警察などでは殉職は2階級特進というのが慣例となっています。
将官の特殊進級
さてついったーでは「大佐は戦死すると少将に進級する。将官の2階級特進はないからね」というコメントを見かけましたが、残念ながらこれは誤りです。大佐で戦死して中将に進級した例は少なくとも5例あります。
その一方で、少将で戦死して大将に2階級特進した例はありません。すべて中将どまりです。「将官への2階級特進」はありますが「将官から2階級特進」はないのです。
ここには「海軍大将への進級」のハードルの高さがあったろうと思います。海軍大将は単に階級としての最高階級であるに留まらず「親任官」つまり天皇が直々に任命する階級であるという重みがあったでしょう。実際には部内の調整の上で海軍大臣が起案する人事ではありますが、建前としては天皇が自ら選んで任命するという形式をとりました。それを反映して「海軍武官進級令」には海軍中将から海軍大将に進級する際の実役停年の定めがありません。天皇の人選に制約を設けてはいけないという趣旨なのでしょう。
海軍大将進級のハードルの高さは、中将で戦死した場合の特殊進級の実例からもうかがえます。実は海軍中将で戦死・戦病死・殉職した者は私が数えるかぎり15名になりますが、そのうち大将に進級したのは5名だけです。残り10名は戦死しても進級せず中将に留まりました。
対照的なのは高木武雄と角田覚治でしょう。ふたりは海軍兵学校第39期生の同期生、いずれも中将で高木は第6艦隊司令長官としてサイパンに、角田は第1航空艦隊司令長官としてテニアンに司令部を置き、ともに米軍の上陸をうけて相次いで戦死しました。しかし高木は海軍大将に特殊進級したのに対し、角田は中将にとどめられたのです。ふたりの功績に大きな違いはありません。では何が違うかというと、中将進級の時期が違うのです。高木の中将進級は昭和17(1942)年5月1日、角田の進級は同年11月1日で半年遅れです。ふたりが戦死した昭和19(1944)年7-8月の時点から引き算すると、高木は中将進級から2年2月あまり、角田は1年9月あまりとなります。どうやら大将進級のためには「2年の壁」があったようです。
検証のため南雲忠一を除く中将戦死者の進級時期と戦死までの年月を見てみましょう。南雲は海兵36期生でひとりだけ飛び抜けて年次が高く、戦死時の職は方面艦隊司令長官(中部太平洋方面艦隊司令長官)と格上であり、さらに同期生で中将進級が同じタイミングである塚原二四三は翌昭和20(1945)年5月15日に大将に定期進級しており戦死せず現役に留まっていれば南雲も同じタイミングで大将に進級していた可能性が高く、戦死による大将進級には異論はなかったことでしょう。
さて、まず中将で戦死して大将に進級したもののうち南雲を除いた4名です。
ついで中将で戦死して進級できなかった者のうち8名です。
両方を比べてみると、前者は中将進級2年以上、後者は2年未満にはっきり分かれることはみてとれます。実は前者には親補職である艦隊司令長官を経験しているという共通点があるのですが、それは後者のうち角田覚治にもあてはまります。親補職の経験が配慮されなかったとは言えませんが、2年の壁のほうが重視されたのでしょう。
さて、読者のなかには「中将の戦死者15名」と数があわないことに気づいた方がいたかもしれません。実はあと2名「中将の戦死者」がいます。
この2名は中将進級から2年以上経過しており、さらに艦隊司令長官を経験していて「大将進級」の条件をクリアしているようですが実際には進級していません。ともに降伏決定後に自決あるいは自決同然の戦死をしておりその行動に議論を生んだことから除外されたのでしょう。
レイテ沖で戦死した巡洋艦艦長
なんとなんと、ここまでの記述はすべて前振りでした。ここから本題となります。
のっけから重箱の隅をつつくようなことを言うと「レイテ沖で戦死した巡洋艦艦長」を文字通り解釈すると該当するのは「鳥海」「鈴谷」「筑摩」の3隻のみになってしまいます。「レイテ沖」以外を含む「比島海戦」全般で沈没した巡洋艦は「愛宕」「摩耶」「鳥海」「最上」「鈴谷」「筑摩」「多摩」「鬼怒」「阿武隈」「能代」と10隻にのぼりますがその大半の沈没地点は比島海域ではあるものの「レイテ沖」とは言えません。なお比島海戦後に近隣海域で「那智」「熊野」「木曽」が戦没しています。参考として比島海戦に参加して生還した巡洋艦は「青葉」「妙高」「羽黒」「足柄」「高雄」「利根」「五十鈴」「矢矧」「大淀」の9隻で、参加巡洋艦の過半数が捷号作戦とその後の戦闘で失われたことになります。
上述の通り、比島海戦直前の昭和19年10月15日に定期進級がありました。作戦に参加した22隻の巡洋艦艦長のうち、この定期進級で少将に進級したのは先ほど少し触れましたが2名でした。愛宕艦長の荒木伝大佐(兵45)と妙高艦長の石原聿大佐(兵46)です。このふたりの海軍大佐進級はともに昭和14年11月15日で、ほぼ5年で少将に進級しました。ところがこのふたりは比島海戦を生き残ります。愛宕は23日にパラワン水道で米潜水艦の襲撃をうけて沈没しますが、荒木艦長は収容されて生還しました。荒木大佐の愛宕艦長補職は昭和18年11月15日付で、沈没後の19年11月6日に横須賀鎮守府附に発令されています。妙高は24日に空襲により損傷したためそれ以上の前進を断念してシンガポールに退避し以後出撃することなく終戦を迎えました。石原大佐の妙高艦長補職は昭和18年12月5日付で、比島戦後の20年1月15日に横須賀鎮守府附に転じて艦長を譲りました。
残りの20隻の巡洋艦の艦長は大佐として作戦に参加します。そのうち捷号作戦とその直後の戦闘で戦没したのは12隻、艦長が艦と運命をともにしたのは7隻で、5名は生存しました。戦死した7名はいずれも少将に特殊進級しています。思ったよりも生還者が多いという印象を抱いたのは自分だけでしょうか。
レイテ沖に沈んだ3隻
「レイテ沖」を厳密に解釈するとサマール島沖海戦で戦没した「筑摩」「鈴谷」「鳥海」だけが該当するというのはすでに述べた通りです。サマール島沖海戦はかなり混乱した様相を呈しましたがそれを象徴するのが「筑摩」で戦闘中に司令部と連絡がとれなくなり日本側からみると消息不明となってしまいました。艦長則満宰次大佐(兵46)は昭和15年11月15日に大佐進級、19年1月7日に筑摩艦長に補せられ消息不明後戦死認定され海軍少将に特殊進級しています(昭和20年2月16日海軍辞令公報甲第1723号)。
「鳥海」も混戦の中で本隊と分離してしまいほとんど孤立無援で沈没して随伴の駆逐艦だけがかろうじてその最期を確認しました。艦長の田中穣大佐(兵47)は、昭和16年10月15日に大佐進級、19年6月6日に鳥海艦長に補せられ、艦と運命をともにしやはり海軍少将に特殊進級しています(昭和20年2月16日海軍辞令公報甲第1723号)。
「鈴谷」は乗員の多くが駆逐艦に救助され、艦長の寺岡正雄大佐(兵46)もその中に含まれていました。大佐進級が昭和16年10月15日、鈴谷艦長補職が19年8月29日とわずか2ヵ月前で、同年11月6日に呉鎮守府附に発令されています。
その他艦長が戦死した5隻
「摩耶」は主力に属して出撃しましたが23日パラワン水道で米潜水艦の襲撃をうけて撃沈されました。艦長大江覧治大佐(兵47)は昭和16年10月15日に大佐進級、18年12月26日に摩耶艦長に補せられ艦と運命をともにし海軍少将に特殊進級しています(昭和20年2月16日海軍辞令公報甲第1723号)。
「最上」はいわゆる西村部隊の1隻としてレイテ湾に南方からの突入を企図しましたがスリガオ海峡で米戦艦群の迎撃をうけて撃退され退避中に沈没しました。艦長藤間良大佐(兵47)は昭和16年10月15日に大佐進級、19年4月10日に最上艦長に補せられ10月25日戦死、海軍少将に特殊進級しました(昭和20年3月13日海軍辞令公報甲第1744号)。
「多摩」は囮をつとめた機動部隊に所属し米艦載機の攻撃を受けて損傷後に単艦で退避中に消息不明となりました。米側の記録では潜水艦が撃沈したとあります。艦長山本岩多大佐(兵46)は昭和18年5月1日に大佐進級、同年12月15日に多摩艦長に補せられましたが戦死と認定され海軍少将に特殊進級しました(昭和20年2月17日海軍辞令公報甲第1724号)。比島海戦に参加した巡洋艦艦長のなかでは最も大佐進級が遅い人物になります。
比島海戦後は米軍が上陸したレイテ島への増援が戦局の焦点となりました。比島海戦を生き残った「那智」は輸送部隊の支援のためにマニラ湾で待機していたところ米機動部隊の攻撃をうけて11月5日に戦没。艦長の鹿岡圓平大佐(兵49)は昭和17年11月1日に大佐進級、19年8月20日に那智艦長に補せられるも11月5日戦死し海軍少将に特殊進級しました(昭和19年12月17日海軍辞令公報甲第1671号)。なお11月7日付で横須賀鎮守府附に発令されていますがこの種の行き違いは珍しくなく、おそらくのちに取り消されたものと思われます(こうした訂正記事は辞令公報にちょくちょくみられます)。
「熊野」は比島海戦で損傷して根拠地ブルネイへの帰還を断念していったんマニラに入ったあと、本土への帰還が命じられました。しかしその途中、アメリカ潜水艦の攻撃を受けて行動不能となり曳航されて近くのサンタクルズ港に入ったものの11月25日にいたって米艦載機の攻撃により沈没。艦長人見錚一郎大佐(兵47)は昭和16年10月15日に大佐進級、19年3月29日に熊野艦長に補せられましたが戦死、海軍少将に特殊進級(昭和20年2月16日海軍辞令公報甲第1723号)。
艦を失うも生還した4名
「能代」は遊撃部隊主隊に属してその先頭に位置していましたが主隊が撤退に転じた翌日の朝に米艦載機の攻撃を受けて落伍、のち沈没しました。艦長梶原季義大佐(兵47)は昭和17年5月1日に大佐進級、18年12月15日に能代艦長に補せられ、沈没から生還して11月6日に横須賀鎮守府附に発令されました。
「阿武隈」は西村部隊に所属し扶桑や山城、最上などが失われたあと退避を続けていましたがB24爆撃機の追撃をうけて沈没。艦長花田卓夫大佐(兵48)は昭和16年10月15日に大佐進級、19年3月26日に阿武隈艦長に補せられ、沈没から生還した後の11月6日に横須賀鎮守府附に発令されました。
「鬼怒」は第16戦隊(左近允尚正司令官)に属し、レイテ突入をめざした捷号作戦の裏でレイテ島への輸送にあたるためマニラを経てレイテに向かいましたがその帰途、米艦載機に捕捉され攻撃をうけて沈没。艦長川崎晴実大佐(兵46)は昭和16年10月15日に大佐進級、19年2月4日に鬼怒艦長に補され、生還したあとの11月6日に比島中部セブの第36警備隊司令に転補されました。
「木曽」は比島海戦には参加していませんが輸送作戦のため急遽内地からマニラに派遣されました。そこを米軍機に襲われ11月13日沈没。艦長今村了之介大佐(兵49)は昭和17年11月1日に大佐進級、19年2月7日に木曽艦長に補されました。木曽の沈没地点はマニラ港内で今村艦長は生還しています。
艦を守った8名
「羽黒」の艦長杉浦嘉十大佐(兵46)は昭和15年11月15日に大佐進級、18年12月1日に羽黒艦長に補せられました。20年5月1日に少将進級、「少将艦長」となるもその半月後にインド洋でイギリス艦隊と交戦して撃沈、戦死。戦死後に海軍中将に特殊進級。
「足柄」の艦長三浦速雄大佐(兵45)は昭和15年11月15日に大佐進級、19年1月30日に足柄艦長に補せられました。20年5月1日に少将進級、「少将艦長」となりましたが6月8日、英潜水艦に乗艦を撃沈されるも生還します。6月20日付で蘭印を担当する第2南遣艦隊(司令長官柴田弥一郎)の参謀副長に発令されました。
「高雄」艦長小野田捨次郎大佐(兵48)は昭和16年10月15日に大佐進級、19年8月29日に高雄艦長に補されました。10月23日にパラワン水道で米潜水艦の雷撃をうけ大破しシンガポールに帰投。20年3月22日に当地に司令部を置く第10方面艦隊参謀副長(司令長官福留繁)に転じました。
「青葉」艦長山澄忠三郎大佐(兵48)は昭和16年10月15日に大佐進級、19年6月4日に青葉艦長に補せられました。第16戦隊に所属していましたが大破し本土に帰還。20年1月1日付で第3航空艦隊参謀長(司令長官寺岡謹平)に転補されます。
「利根」艦長黛治夫大佐(兵47)は昭和16年10月15日に大佐進級、18年12月1日に利根艦長に補せられました。主力部隊の一員でありながら生還しています。20年1月6日に横須賀鎮守府附とされました。
「大淀」艦長牟田口格郎大佐(兵44)は昭和16年10月15日に大佐進級、19年8月15日に大淀艦長に補せられました。このとき大淀は聯合艦隊旗艦で豊田副武司令長官が乗艦していましたが司令部の地上移転がすでに検討されており、9月29日に司令部は日吉に移りました。大淀はいち巡洋艦として機動部隊(小沢囮部隊)に属して比島戦に参加し生還。20年2月25日に牟田口艦長は戦艦伊勢艦長に転じました。
「矢矧」艦長吉村真武大佐(兵45)は昭和16年10月15日に大佐進級、18年10月11日に艤装中の矢矧に艤装員長(艦長予定者)として補せられ、竣工した12月29日に正式に初代艦長に補せられます。捷号作戦で矢矧は遊撃部隊主力に編入されますが生還しました。吉村艦長は19年12月20日に戦艦榛名艦長に移ります。
「五十鈴」艦長松田源吾大佐(兵49)は昭和18年5月1日に大佐進級、19年6月20日に五十鈴艦長に補せられました。比島海戦では機動部隊に属しましたが生還、その後蘭印方面を担当する第10方面艦隊に所属していましたが20年4月7日に潜水艦の雷撃をうけて沈没しました。松田艦長は救助されて生還しています。
おわりに
というわけで、1隻ずつみてみると「レイテ沖で戦死した巡洋艦艦長」は該当する2名あるいは7名のうちの誰であったとしても「大佐から特殊進級した少将」であるはずだということが確認できました。なお余計なことですがこの中に近畿地方出身者は含まれていませんでした。フィクションのことなので「事実と異なる」と目くじらを立てるつもりは毛頭ありません。ただ「そうした切り口で調べてみるのも面白そうだな」と考えただけのことです。
(書き終えて Wikipedia 見ていたら「巡洋艦乗組の大尉」とか書かれていて「話が違う」と思いましたが、まあいいでしょう。そこを指摘するのが本題ではないので)
結論はわりと早いうちにわかっていたのですが、裏取りや根拠の確認に思ったよりも手間と時間がかかってしまいました。せっかく集めた情報なので消してしまうのももったいなく、記録がてら残しておいた結果として文字数が増えてしまいましたが、あまり気にせず読み飛ばしていただければ幸いです。特に海軍定員例別表の備考の記述は興味深く、艦内編成と付き合わせてみるといろいろなことが読み取れる情報が含まれています。
次のネタの案はいくつかあるのですが形にするにはもうしばらくかかりそうです。こういうことについては完璧主義なのでキリがないのです。普段はいい加減なくせに。それでも月内にはなんとか目処をつけたいと考えてはいます。
それではもし機会がありましたらまた次回お会いしましょう。
(カバー画像は巡洋艦筑摩)
附録
海軍定員令
第1条 本令は海軍の定員及其の配置に関することを規定す
第2条 海軍各部の定員は別に勅令を以て定むるものを除くの外別表に依る
戦時特設艦船部隊の定員は別に之を定む
第1項別表に依る定員と勅令を以て定むる定員とを併せて海軍定員と称す
第3条 海軍定員の外補缺員として准士官以上に在りては鎮守府に、下士官兵に在りては海兵団に海軍定員の100分の40以内の人員を置くことを得
第4条 海軍各部に置くべき特修兵及教員の配置は海軍大臣之を定む
第5条 海軍大臣は必要に応じ海軍各部定員の範囲内に於て臨時適当の定員を置き又其の定員を置かざることを得
第6条 海軍大臣は戦時事変若は演習に際し艦船部隊にして測量練習其の他特別の役務に服する場合には必要に応じ臨時本令別表に依る定員を増減し又は特種の人員を置くことを得
第7条 海軍大臣は教育練習研究其の他特別の必要に依り海軍士官特務士官准士官下士官兵又は海軍文官を本令別表に依る海軍各部に定員外として臨時増置することを得但し勅令又は軍令の規定に依り当該文官を置くことを得ざる各部に在りては此の限に在らず
鎮守府司令長官は練習の為在籍一等兵及特修兵たる上等兵を定員外として本令別表に依る其の麾下各部及其の府在籍の艦船に配置することを得
第8条 海軍各部には必要に応じ本職ある者を定員外として其の定員表内の職務を兼ねしむることを得
前項の場合に於ては定員表所定の等級に依らざることを得
第9条 海軍大臣は必要に応じ出仕又は附たる海軍士官特務士官准士官を海軍各部又は海軍部外に派遣勤務せしむることを得
第9条の2 海軍各部の定員中各科中少尉と特務士官たる各科中少尉とは其の合計定員を超えざる限り科別に従い彼此増減することを得
第10条 必要に応じ海軍定員及補缺員の範囲内に於て一時本令別表に依る各部定員表所定の官職階に依ることなく配員することを得但し上級者を以て下級の位置に充つるは已むを得ざる場合に限る
前項但書の場合に於て特務士官准士官及下士官兵に在りては鎮守府司令長官之を海軍大臣に報告すべし
第10条の2 第2条及第3条に依る所要員の官職階、官等及員数は毎年海軍大臣之を定む
第11条 戦時事変若は演習等に際し海軍定員を補充するに当りては必要に応じ海軍予備役補充兵役及国民兵役軍人又は海軍予備員を以て之に充つることを得
第12条 鎮守府司令長官又は警備府司令長官当該鎮守府又は警備府に於て戦時編制を実施するに当り必要なる戦時増加員の員数を制定せんとするときは予め海軍大臣の認許を受くべし
第13条 第6条及第7条の規定を適用するに当りては海軍定員及補缺員の全数を超過することを得ず
第14条 各艦船定員中衛生中少尉又は衛生兵曹長1人は掌看護長に、特務士官たる主計中少尉又は主計兵曹長1人は掌経理長に充つるものとす
第15条 別表中(水)とあるは兵曹長出身のもの、(飛)とあるは飛行兵曹長出身のもの、(機)とあるは機関兵曹長出身のもの、(工)とあるは工作兵曹長出身のもの、(主)とあるは主計兵曹長出身のものとす
二等巡洋艦定員表 其の5 (利根、筑摩)
艦長 大佐 1
副長 中佐 1
内務長兼分隊長 少佐、大尉 1
航海長 少佐 1
砲術長 少佐 1
水雷長兼分隊長 少佐 1
通信長兼分隊長 少佐、大尉 1
飛行長兼分隊長 少佐、大尉 1
分隊長 少佐、大尉 5
乗組 兵科尉官 2
同 中少尉 8
機関長 機関中少佐 1
分隊長 機関少佐、機関大尉 4
乗組 機関中少尉 3
軍医長兼分隊長 軍医少佐 1
乗組 軍医中少尉 1
主計長兼分隊長 主計少佐 1
乗組 主計中少尉 1
乗組 特務中少尉 4
乗組 飛行特務中少尉 1
乗組 整備特務中少尉 1
乗組 機関特務中少尉 3
乗組 工作特務中少尉 1
計 士官 35、特務士官 10
兵曹長 6
飛行兵曹長 3
機関兵曹長 4
主計兵曹長 1
計 准士官 14
兵曹 120
飛行兵曹 9
整備兵曹 10
機関兵曹 51
工作兵曹 9
看護兵曹 2
主計兵曹 8
計 下士官 209
水兵 357
整備兵 26
機関兵 184
工作兵 16
看護兵 4
主計兵 25
計 兵 612
備考
兵科分隊長の中2人は砲台長、1人は射撃幹部員、1人は測的指揮官、1人は見張指揮官兼航海長輔佐官に充つ
機関科分隊長の中1人は機械部、1人は罐部、1人は電機部、1人は工業部の各指揮官に充つ
特務中少尉及兵曹長の中1人は掌内務長、1人は掌砲長、1人は掌水雷長、1人は信号長、1人は掌通信長、1人は操舵長、1人は電信長、1人は主砲方位盤射手、1人は砲台部附、1人は水雷砲台部附に充て信号長又は操舵長の中1人は掌航海長を兼ねしむるものとす
機関特務中少尉及機関兵曹長の中1人は掌機長、3人は機械長、2人は罐長、1人は電機長に充つ
飛行機(三座)搭載の場合に於ては1機に付1人の割合にて飛行兵曹を増加するものとす
飛行機を搭載せざるときは飛行長兼分隊長、兵科尉官2人、飛行特務中少尉、整備特務中少尉、飛行兵曹長、飛行兵曹、整備兵曹及整備兵を置かず (飛行機の一部を搭載せざるときは概ね其の数に比例し上掲の人員を置かざるものとす) 但し飛行科、整備科下士官兵に限り其の合計員数の5分の1以内の人員を置くことを得
兵科分隊長 (砲術) の中1人は特務大尉を以て、中少尉の中2人は特務中少尉又は兵曹長を以て、機関科分隊長の中1人は機関特務大尉又は工作特務大尉を以て、機関中少尉の中1人は機関特務中少尉又は機関兵曹長を以て充つることを得
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