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依託学生とROTC


海軍委託学生

 日本海軍では、特定の学科で学ぶ大学生のうち志願するものを依託学生に採用して、卒業後に海軍士官に任官させた。東京帝国大学学生で海軍造船学生だった堀元美(のち海軍技術大佐)によると、一部の科目が必修とされたことと、ときどき海軍省に出頭してわずかな手当を受け取ること以外は普通の学生と全く変わらない日常だったという。一種の青田買いだったとも言える。

 依託学生制度は明治の初めに技術学生を工部大学校(現在の東京大学工学部)に派遣して教育を依託したことに始まり、のち医学生にもひろがった。きちんと制度化されたのは明治30年のことで、東京帝国大学工科大学または京都帝国大学理工科大学の学生を造船学生または造兵学生に、東京帝国大学医科大学の学生を軍医学生または薬剤学生に採用して卒業後はそれぞれ海軍造船中技士・海軍造兵中技士・海軍中軍医・海軍中薬剤士(いずれも中尉相当)に任官することとした(当時、大学は同年創立の京都帝国大学と、京都帝大の設立にともなって帝国大学が改称した東京帝国大学しか存在しなかった。各分科大学は現在の学部に相当する。なお京都帝国大学に医科大学が設置されたのは明治32年)。

 依託学生制度により学生にとっては多少の手当が得られることと、卒業後の進路が早い内に保証されるというメリットが、海軍にとっては人材を早めに確保するというメリットがあった。大きな観点では、手当を支給することで本来であれば大学で学ぶだけの資力がなかった優秀な生徒が大学に進む可能性をいくぶん高めたという価値はあっただろう。この制度によって毎年コンスタントに技術士官や軍医士官が採用されるようになり、海軍における人事計画の安定に大いに寄与した。
 もうひとつ、依託学生に採用されるとその時点で「海軍兵籍」に編入された。これは海軍兵学校生徒などと同様の取り扱いだが、これによって具体的に何が起こるかというと、陸軍の担当である徴兵事務の対象から除外されるということである。陸軍に一兵卒として徴兵されることはなくなり、それどころか徴兵検査を受ける必要もない。もともと学生には徴兵の猶予が認められていたのだが、これはあくまで「猶予」であり戦時には陸軍大臣に大きな裁量があった。しかし海軍兵籍に編入されればそうした心配はまったくなくなる。これは学生と海軍の両方にとって大きなメリットだっただろう。

 依託学生の対象となる大学は次第に拡大されていく。明治32年には軍医学生・薬剤学生の対象として京都帝国大学医科大学が追加されるのとともに、新たに主計学生が設置されて高等商業学校(現在の一橋大学)生徒を対象とした。翌明治33年には主計学生の対象に東京・京都帝国大学法科大学の学生が加えられる。明治44年には個別の大学名を列記するのをやめて帝国大学工科大学などと改めた。帝国大学が各地に設置されていった状況を考慮したものであろう。また官立専門学校も対象に加えられている(当時の専門学校は現在では大学・短大・高等専門学校などに相当)。大正2年には私立医学専門学校が対象に加わった。

 大正8年に大学令が設置され、それまで帝国大学にしか許されなかった「大学」の名称が広く認められるようになった。専門学校の多くは大学に衣替えし、はじめて私立大学も生まれた。依託学生制度もそれに従って改められ、対象のうち「帝国大学」が「大学令による大学」と大きく広げられた。なお専門学校にとどまって大学とはならなかった学校も少なくなく、そうした専門学校の生徒も依託学生の対象であることは変わらなかった。ただし専門学校出身の学生が初めて任官するときには少尉相当階級からのスタートになる。
 依託学生の制度自体はこの時点でほぼかたまり、開戦まで大きく変わることはない。「依託学生」という総称が法令上で現れるのは昭和17年のことで、それまで「海軍軍医学生・薬剤学生・主計学生・造船学生・造機学生・造兵学生・法務学生及海軍造船生徒・造機生徒・造兵生徒及歯科医生徒令」と列挙されていたものが「海軍依託学生・生徒令」(昭和17年勅令第646号)に改められたときのことだが大筋は変わらない。

 工業専門学校の生徒には「依託生徒」制度があったが、はじめ依託生徒の採用先は判任文官(下士官相当)である「海軍技手」だった。技手が出世して高等官に昇進すると技師となる。のち依託生徒から造船・造機・造兵少尉に採用できるようになり依託学生とは単に初任階級が違うだけとなり、最終的に上記の通り「依託学生・生徒」としてまとめられた。

二年現役

 海軍での軍医科・薬剤科・造船科・造機科・造兵科士官は依託学生から採用するのが本道であったが、必ずしも依託学生である必要はなかった。「海軍武官任用令」ではこれらの士官は所定の学校を修了した者から採用するとしているが、依託学生は要件とはされていない。実際、依託学生に採用されなくても海軍に採用されて士官に任官した例は多い。造船学生については東京帝国大学造船工学科はかなり遅くまで日本で唯一の造船工学科でもともと海軍の支援で設立されたこともあって海軍との結びつきが強く、海軍に進むつもりの学生はほとんど造船学生を志願したというが、一方で軍医学生などはぎりぎりまで進路を決めないことも多く民間での需要もあり依託学生を経ないで軍医科士官に任官することも多かったようだ。

 主計学生については制度は存続していたが明治の終わりから海軍経理学校による生徒教育がはじまって海軍が自前で主計科士官を養成するようになった。しばらくは大学などの主計学生出身者と生徒出身者の二本立てで採用されていたがやがて外部からの採用は絶え、生徒からの採用一本槍となり主計学生制度は形骸化した。

 二年現役士官制度、いわゆる「短現」は昭和13年にはじまった主計科が有名だが実際にはじまったのは大正14年、軍医科および薬剤科で取り入れられた。きっかけはワシントン軍縮条約などに象徴される当時の軍縮機運だった。艦艇など部隊の規模が縮小されると、それにともなってポストも少なくなり士官からも多くが現役を離れた。平時に所要人員が少なくなり、戦時に膨張するのは軍隊の常で、当然そうした備えがあるべきだった。このとき問題になったのは下級軍医が不足する可能性だった。戦時には艦船などの部隊が急激に増加する。その部隊には軍医を配属しなければならない。特に軍医長(少佐)から乗り組み軍医(大中尉)クラスの下級から中級クラスの軍医が大量に必要になると見込まれたが、普段からこうした軍医を現役としてかかえておくのは得策ではない。とはいえ、いったん採用した軍医士官は少なくとも大佐くらいまでは海軍部内で勤務するのがこれまでの慣例である。こうした矛盾を解決したのが二年現役制度である。軍医科士官の一部を、二年間の現役勤務のあと予備役に編入することを前提として採用する。軍医科士官は医師免状を保有しているので、予備役になっても病院勤務なり開業なりで医師として生活はなりたつ。戦時に必要になった場合は召集して艦船や部隊で例えば軍医長などとして勤務し、必要がなくなれば召集解除する。一般の軍医科士官は海軍部内で進級を重ね、海軍省や海軍軍医学校・海軍病院などの主要職に就いて指導的な立場に立たされることを想定しなければいけないが、現場で軍医として働くことしか想定しないのであればそうした教育は必要ない。最低限の海軍に関する知識と実務経験があれば充分だ。そういう考えから現役期間は二年と定められた。
 二年現役として採用された軍医は、まず横須賀の海軍砲術学校で海軍に関する基礎知識を1ヶ月かけて学ぶことになる。海軍砲術学校は、専門である砲術の教育のほかにこうした「部外者に海軍の習わしを教え込む」役割をしばしば果たした。その後は海軍軍医学校で普通科学生として初級軍医科士官としての教育を3ヶ月受けたあとは、艦船や部隊などの現場に配属されて残った現役期間を過ごす。とにかく必要最小限のことだけまず教えたあとは徹底した現場主義がとられた。二年現役士官制度の海軍側でのメリットは明らかだが、軍医側のメリットはちょっと考えにくい。海軍士官の階級を得ておくことで陸軍による徴兵を確実に回避できるということがひとつ考えられる。さらに官尊民卑の当時、海軍士官の階級を持っていることが信用につながったという無形のメリットはあったかもしれない。

 二年現役制度は既述の通り大正14年に「海軍軍医科及薬剤科士官現役期間特例」(大正14年勅令第308号)として制定されたが、昭和12年末に主計科・造船科・造機科・造兵科士官にも拡大された(昭和12年勅令第725号)。このうち造船・造機・造兵科士官は軍医と同じく大学卒業者から採用してきたので、これまで軍医・薬剤官で10年以上運用されて実績がある二年現役制度が採用されても混乱はなかった。当時は軍縮条約から離脱したばかりで艦艇の建造が増加することが見込まれ、それを見越した二年現役の採用だったのだろうが、軍医のように戦時に所要数が急増することは想定しづらく(実際には戦時の技術士官不足は想定外だった)、さほどの緊急性はなかった。
 問題は主計科士官で、お金や物の管理をする主計科士官は軍医と同じくすべての部隊に必要な役割であり戦時の所要数はかなり大きくなることが想定されたが、なにしろ主計科士官は経理学校での内部育成に移って久しく、そろそろ経理学校卒業者が主計科士官のトップに立つ時期が近づいていた(海軍経理学校生徒出身者ではじめて海軍省経理局長に就任したのは昭和18年6月1日の山本丑之助)。この経理学校出身者が主計科における二年現役制度に反発した。経理学校では3年数ヶ月(時期により異なる)の生徒教育を経てまず海軍主計少尉候補生を命じられ、さらに遠洋航海などの実務教育を経てようやく士官として最下級の海軍主計少尉に任官されるのに対し、これまで大学で娑婆の暮らしを謳歌していた者が大学卒業だからといって海軍のことを何も知らずにいきなり海軍主計中尉に任官するのは何事だ、という感情的な反発だった。
 二年現役制度については当時海軍省人事局長だった清水光美(のち海軍中将)が考案者だったというが、既述のとおり主計学生制度も二年現役制度もすでに長年存在していたもので、それを組み合わせただけと評価することもできる。ただこうした部内の反発を抑え、制度設計に苦心して実現にこぎつけた努力は認められるべきだろう。もともと主計科士官は大学法学部出身者を採用することとされていたが、これにしたがって例えば東京帝国大学の法学部出身者も採用の対象となる。東大法学部と言えば今も昔も高級官僚を多く輩出することでしられる。大蔵省などの中央官庁や、財閥系の大企業に採用が決まっていた学生の就職を二年待たせて海軍で勤務させ、現役終了後に復帰させるというのは官庁や企業側から反発があったが清水局長が説得して認めさせたという。
 主計科二年現役士官制度については、その出身者が後年官僚や政治家・大企業の経営者などの社会影響力の大きい立場になったこともあり過大評価されている面もあるが実際の現場でもおおむね評判がよく継続することになった。彼らが海軍について好意的に語ったことがいわゆる「海軍善玉論」に寄与したという見方もある。なお昭和17年にいたって海軍武官任用令が改正(昭和17年勅令第445号)され、候補生を経ずに海軍士官に任官するときはまず見習尉官に任じ少なくとも2ヶ月の実務練習を経ることとしたのは、上記の経理学校出身者の反対理由に対応したものであろう。

ROTC

 依託学生や二年現役制度は軍医や主計、技術士官に特有の制度で、海軍の「主流」たる兵科将校や機関科将校には適用されなかった。兵科や機関科ではこうした予備的人材は現役を退いた予備役将校で対応するのが基本だったが、その他に日露戦争中に制定された「予備員」制度があった。予備員制度は簡単にいうと商船学校(現在の商船大学)卒業者に海軍軍人としての階級を与え、戦時に召集して海軍で勤務させるというものだったが、依託学生と予備員のもっとも大きな違いは、依託学生が志願であるのに対して予備員は指定学校の生徒は例外なく予備員(卒業前は予備員候補者)に採用されるという者だった。海軍で勤務するつもりがなく商船の船員になるつもりで入学しても自動的に海軍軍人とされてしまうわけで現代の眼から見るとかなり問題があるが当時としてはそれほど問題視された様子はない。平時でも訓練召集される可能性はあったが実際にはほとんど活用されていなかった。一度、演習に際して召集してみたところきわめて優秀だったと評価されたが後がつづうかなかった。戦時に大量召集され護衛艦艇の艦艇長や乗組員の多くは予備員が占めたという。いわゆる学徒出陣の海軍側の受け皿になったのは予備員制度で、学徒が海軍に徴集された場合は予備員である予備学生を志願することができた。飛行科予備学生の多くが特攻隊員となって散ったことはよく知られている。

 大学の中で課程として軍事教育がおこなわれてそれが卒業単位として認められた上、卒業後の進路として軍があるという依託学生制度はいかにも軍国日本らしい制度に見えるが、実際には軍医や技術といった特定の技能を前提とする一部に限られ、直接戦闘にあたる兵科将校にはこうした制度はなかった(予備学生に志願できるのは卒業後、あるいは徴兵された後のことである)。多くの大学では軍事教練がおこなわれていたが士官の採用についてはあまり影響がない。学校と軍隊は戦時中などを除けばあまり接点はなかったのである。

 ところがアメリカではやや事情が異なる。ROTC Reserve Officer Training Corps は、大学に設けられた予備士官候補生の教育訓練課程である。教職課程の軍隊版を想像してもらえるとわかりやすいと思う。

 学生は ROTC に志願できる。奨学金制度と同じで成績の基準がある。ROTC は座学の講義と実習で構成されており、座学の講義は単位に加算される。実習は夏休みなどの長期休暇におこなわれ、陸軍ではケンタッキー州の Fort Knox が主な訓練地になっており、全国から学生が集まって部隊を編成して下級指揮官として必要な訓練を行なう。

 ROTC 課程を取得して大学を卒業すると軍に士官として任官することができる。米軍士官の供給源としては、"West Point" として知られる陸軍士官学校、通称 "Anapolis" の海軍兵学校、コロラドスプリングスの空軍士官学校が有名だが、量的にはこれらの国立軍学校の卒業生は少数派で、ROTC 出身士官のほうが圧倒的に多数派である(アメリカの大学は基本的に私立か州立)。2020年の統計によると新任士官のうち陸軍では70%、海軍では61%、空軍では63%、海兵隊では83%が ROTC 出身者だったという。軍学校、ROTC の他の士官供給源としては下士官を士官に訓練する士官候補生学校 Officer Candidate School OCS 出身者、部隊で直接任官する direct commission、さらに私立の軍事大学 military college 出身者がある。「私立の軍事大学」というのは日本では想像もできないだろうが "Virginia Military Institute"、"The Citadel"、"Texas A&M" などが知られる。第二次世界大戦中のアメリカ陸軍参謀総長マーシャル(のち元帥)は Virginia Military Institute (VMI) の出身である。
 2020年時点でアメリカ軍の現役士官のうち56%が ROTC 出身者だという。現代の日本でも自衛隊の幹部(士官)は防衛大学と一般大学、部内採用の複線式になっているが、一般大学で軍事教育がおこなわれているとは聞かない。自衛隊で防衛大出身者 (B) と一般大学出身者 (U) の比率がどれくらいなのかは把握していないが、上層部に限ると圧倒的に防衛大出身者で占められている。最近は少しその状況が変わってきて一般大学出身者もちょくちょく顔を出すようになり、現在自衛隊制服組トップの統合幕僚長である吉田圭秀陸将は東大出身だが、陸上幕僚長に就任したときにはその筋ではちょっとした話題になった。何しろ1990年代はじめに防衛大1期生が幕僚長に就任して以来、統合幕僚長(前身の統合幕僚会議議長)・陸上幕僚長・海上幕僚長・航空幕僚長のいずれかひとつでも防衛大出身者以外が就任したのははじめてのことである。

 アメリカ軍はもともと、植民地時代に原住民の襲撃から身を守るために編成した民兵に端を発し、独立戦争ではこうした民兵を組織化してイギリス軍と戦った。こうした経緯からアメリカの特に陸軍は民兵およびその後継とも言える州兵を基礎として、連邦政府が独自の戦力を持たない時代が長く続いた。南北戦争が勃発した当初、北軍の高級指揮官の多くは政治任用によるもので、前職は企業の経営者とか地方の有力者などの軍事的な専門知識を持たない、せいぜい若い頃に民兵の指揮官としてインディアン討伐戦を経験した程度の素人が指揮をとっていた。一方の南軍を指揮したリー将軍は陸軍士官学校(West Point)で学んだ職業軍人で、素人に指揮された北軍はしばしばリーに敗れる。業を煮やしたリンカーン大統領は、政治任用の指揮官を解任し、やはり陸軍士官学校を卒業したグラント将軍を指揮官に採用してようやく南軍に勝利した。こうして陸軍士官学校の必要性は広く認識されたが、南北戦争後は再び連邦軍は解体され、士官学校出身者のポストは連邦政府のわずかなポストしか残されなかった。
 ROTC 制度の原型は南北戦争中に作られたが、陸軍の正式な制度に採用されて本格的に稼働し始めるのは第一次世界大戦中になる。第二次世界大戦において、実戦指揮官の多くを ROTC 出身者が占めたが上層部の多くは士官学校出身者が占めた。その中で VMI 出身のマーシャルが参謀総長にまで至ったのは特筆される。

 戦後もしばらくのあいだは士官学校出身者が主流となる。ベトナム戦争が終結するころまではこうした風潮が続く。しかしその後、多数派の ROTC 出身者が前面に出ることが多くなってくる。1990年、湾岸戦争が勃発したときのアメリカ軍の制服組トップである統合参謀会議議長 Chairman of the Joint Chiefs of Staff を務めていたのはニューヨーク市立大学で ROTC を志願して陸軍に入隊した経歴を持つコリン・パウエルだった。パウエルは ROTC 出身者としてはじめての統合参謀会議議長である。
 第二次大戦後、陸軍の ROTC にならって海軍(海兵隊を含む)では NROTC、空軍では AFROTC が設けられた。現在ではこれらの ROTC は統合され、元祖である陸軍の ROTC は AROTC Army ROTC と呼ばれるようになった。

 統合参謀会議は、最高司令官であるアメリカ大統領に対する制服組の軍事助言機関で現在では8人で構成されている(議長、副議長、陸軍参謀総長、海軍作戦部長、空軍参謀総長、宇宙軍作戦部長、海兵隊総司令官、州兵総監)が、このうち最高位の議長を含む過半数の5人が ROTC 出身者である。

 アメリカでは政府機関の上級人事の多くに議会上院の承認が必要となる。軍も例外ではなく、統合参謀会議の構成員となるような役職ばかりではなくインド太平洋軍司令官などの上級指揮官や、大将の階級への昇進にも議会の同意が必要なのだが、候補者が公聴会で追及されることはあっても軍人事に関しては満場一致で承認される慣習だった。ところが昨年の秋ごろ、共和党の上院議員であるタバービル Tommy Tuberville が、国防長官が軍人の中絶を支援する(中絶が合法の州に移動するための交通費を支給する)措置をとったことに抗議してすべての承認を拒否するという事態が起こった。このため、ちょうど交代時期になっていた統合参謀会議議長、陸軍参謀総長、海軍作戦部長、空軍参謀総長、海兵隊総司令官の正式な就任が数ヶ月遅れ、その間は代行として限定された権限しか持たない状態が続いた。この状態は年末までに解消して今では全員が正式に就任している。海軍作戦部長にはノースウェスト大学(イリノイ州)で NROTC を修了して海軍士官としてのキャリアを始めたフランチェッティ大将が就任した。

 フランチェッティ大将 Admiral Lisa Franchetthi はアメリカ海軍で大将に昇進した二人目の女性で、女性としてはじめて海軍制服組トップの海軍作戦部長で、同時に女性としてはじめての統合参謀会議構成員となった。つまり、他の軍種では女性のトップはまだ出ていないということになる。
 日本の自衛隊では女性で将補になった人は数えるほどで将(中将相当)に昇進したのは昨年末に大湊地方総監に就任した近藤奈津枝海将がはじめてである。残念ながら山口大学出身で経歴的に主流の自衛艦隊での勤務に乏しい近藤海将は大湊地方総監で勇退となる可能性が高い。大将相当の幕僚長に就任する女性が出るまであと何年かかるだろうか。

おわりに

 長いわりになんだかとりとめもなくなってしまいました。ネタに困っていたところ、そういえばアメリカの軍高官承認の話はどうなったんだっけと調べてみたところ、海軍作戦部長に正式承認されたのが女性で ROTC 出身者であることに気づき、そこから依託学生が連想されたもので、実は発想としては記述の順序の逆だったのです。

 せめて月に一度は何か書こうと思っているのですが、どうなるかわかりません。もし何か思いついたらまた次回お会いしましょう。

(カバー画像はアメリカ海軍作戦部長リサ・フランチェッティ海軍大将 - Wikipedia より)

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