見出し画像

舞鶴鎮守府の復活

 舞鶴鎮守府は明治34(1901)年に初めて設置されましたが、大正12(1923)年に要港部に格下げされ、再び鎮守府が置かれたのは昭和14(1939)年のことでした。

第四の鎮守府

 横浜にはじめての鎮守府が置かれたのは明治9(1876)年で西南戦争が起こる前年のことでした。この東海鎮守府とあわせて海軍では長崎に西海鎮守府を置きたいという要望があったのですが財政上の問題で見送られました。当時から海軍では日本周辺海域を四方面に区分してそれぞれ鎮守府(東西南北)を置くという構想を持っていましたが、鎮守府は長く横浜のひとつだけの時期が続き、鎮守府が横浜から横須賀に移って横須賀鎮守府と改称したのは明治17(1884)年、呉と佐世保に待望の鎮守府が開庁したのは明治22(1889)年のことでした。
 同じ明治22(1889)年に制定された鎮守府条例では日本周辺を5つの海軍区に分割してそれぞれひとつずつ軍港を置き、軍港には海軍区の警備を担当する鎮守府を置くとされました。このなかで第四海軍区の軍港を京都府加佐郡舞鶴に置くと定められています。軍港の選定は早くから始まっており、一時は能登半島の七尾湾なども候補になりましたが結局舞鶴が選ばれることになりました。しかし軍港の正式な選定から鎮守府の開設までは実に12年を要しました。そのために臨時海軍建築部がわざわざ設けられています。

 舞鶴鎮守府が開庁した明治34(1901)年は、2年あまり後に日露戦争が勃発する時期で、当然その設置はロシアをにらんだものでした。当時ロシア艦隊の主力は旅順を根拠地としており対抗する日本海軍の前進基地はまず佐世保とされており、舞鶴は日本海沿岸地方の警備とともにウラジオストク所在の部隊の警戒にあたりました。なお東郷平八郎は聯合艦隊を率いる前は舞鶴鎮守府司令長官で「閑職に置かれていたのを山本権兵衛が引き上げた」と言われていますが、長年かけてようやく開庁させた舞鶴鎮守府司令長官が「閑職」というのは無理があります。確かに舞鶴は4つの鎮守府のなかではもっとも格下ではありますが、当時は数少なかった親補職のひとつでもあり、部内での格はそれなりに高かったでしょう。

 日露戦争では舞鶴はあまり目立つ活躍は見せませんが、日本海海戦で捕獲したロシア艦を佐世保に回航しようとしたときに損傷が激しかったためまず舞鶴に入港させるなど、軍港を置いた意義は充分ありました。聯合艦隊の旗艦をつとめた戦艦三笠は舞鶴鎮守府籍でした。

鎮守府の役割

 鎮守府の役割についてはすでに記事を書きましたが、改めて要点をまとめておきます。鎮守府は軍港に置かれてその所在地を冠して呼称し、所管海軍区の警備に任じます。舞鶴鎮守府が所管する第四海軍区は日本海側の山口県(一部)から山形県までの海岸に面する海域となっていました(明治から大正にかけて)。しかし実際には艦隊の後方基地の役割が大きくなっていきます。
 海軍艦艇はいずれかの鎮守府に本籍を置きました。本籍は「艦隊などに配属されても変わらない」とされており、人間に例えて言ってみれば現住所が変わっても本籍はずっと実家にあるようなものでしょうか。艦艇の乗員(法令的には職員)のうち士官などの高等官については海軍省で人事を行なっていますが、下士官兵については本籍をもつ鎮守府で人事を行ない、そのため鎮守府には幕僚として人事長が置かれるとともに海軍人事部が設置されていました(海軍人事部長は鎮守府人事長の兼職)。海軍では伝統的に志願兵を重視してきましたが、海軍志願兵令施行規則では鎮守府ごとに徴募区を指定し、その区域内から応募した志願兵は相当する鎮守府に兵籍を置きました。例えば新潟県から応募した志願兵は舞鶴鎮守府籍となります。徴兵事務は陸軍が担当しており、海軍兵は師団(師管区)単位で徴集されるとしていますが、これも徴募区に準じて各鎮守府に配分されました。
 結局、舞鶴鎮守府に本籍をもつ艦艇には舞鶴鎮守府に兵籍をもつ兵員が配属されることになり、陸軍の郷土聯隊ほどではないにしろ、ある程度地方色が生まれてくることになります。

舞鶴鎮守府の廃止

 第一次大戦後の軍縮により、舞鶴鎮守府は廃止されてかわりに要港部が置かれます。大正12(1923)年4月1日のことでした。これを「ワシントン条約による軍縮で」と記載していることがありますが、舞鶴鎮守府の格下げとワシントン条約には直接の因果関係はなく、第一次大戦後の軍縮気運がワシントン条約と舞鶴鎮守府の格下げの両方につながったとみるべきです。
 舞鶴軍港は要港に格下げとなり、鎮守府にかわって要港部が置かれることになりましたが、これは単に名称変更・格下げというのにとどまらず、第四海軍区の廃止をもたらします。舞鶴軍港を中心とした第四海軍区は、呉鎮守府所管の第二海軍区に合併されました。鎮守府がなくなったので、舞鶴鎮守府に本籍をもっていた艦艇はほかの鎮守府に本籍を改めることになります。舞鶴鎮守府に兵籍をもつ兵員も転籍となりますが、艦艇の乗員をいきなり全部入れ替えるわけにもいかないので実際の異動はしばらくかかったことでしょう。実際には、すでにこれ以前の大正11(1922)年9月に舞鶴の担当徴募区が廃止されており、新規の入隊がとめられています。舞鶴の担当徴募区は横須賀と呉に配分されました。新潟県以北は横須賀、富山県以南は呉に配分されており海軍区の区分けとは少しずれています。もっとも、これ以前から呉と舞鶴の徴募区の境界は海軍区とはずれていた(鳥取・島根県は第四海軍区だが徴募区としては呉の担当)ため、問題とは考えられなかったのでしょう。
 なお当時の規定では「各軍港に海軍工廠を置く」とされていて舞鶴にも駆逐艦建造で有名な舞鶴海軍工廠が置かれていましたが、舞鶴が軍港でなくなったためこれも舞鶴海軍工作部に格下げになっています。ただ、それと同時に海軍工廠令が改定されて軍港以外にも海軍工廠を置けるようになり、広海軍工廠が設置されており、このあたりはややちぐはぐな感があります。

舞鶴鎮守府の復活

 舞鶴は、呉鎮守府が所管する第二海軍区に所属する要港となり、要港部が置かれることになりました。親補職の司令長官がなくなり、中少将を要件とする司令官が置かれました。もっとも、要港部司令官は天皇直隷とされ、舞鶴要港部司令官には例外なく中将が補職されており、当時4つあった要港部(舞鶴・大湊・鎮海・馬公)のなかでは最上位に置かれていました。満洲事変が起こって軍縮の時代が完全に終わり、非常時が叫ばれるようになった昭和11(1936)年、舞鶴要港部司令官が親補職に改められるとともに舞鶴海軍工作部が海軍工廠に格上げされています。舞鶴海軍工廠は舞鶴要港部が所管するとなっていて、鎮守府所管が原則だった従来と比べるとややバランスが悪い印象は否めません。
 結果、昭和14(1939)年12月1日付で第四海軍区が復活し、舞鶴が軍港に格上げされ、舞鶴要港部は舞鶴鎮守府と改称しました。要港部司令官は鎮守府司令長官と肩書きが変わります。このへんの検討過程を調べるために戦史叢書を参照したかったのですが、ここ数週間防衛研究所の史料室がメンテナンス中でアクセスできません。考えるに、呉などの鎮守府の負担軽減ということでしょうが定かではありません。ちょうど第二次世界大戦が始まったばかりでソ連対策ということかもしれませんが、どうしても要港部ではなく鎮守府でなければいけないというほどの理由は思いつきませんでした。

 16年ぶりに復活した舞鶴鎮守府ですが、ほかの横須賀・呉・佐世保に比べれば影が薄いのは否めませんでした。鎮守府となったのでほかの鎮守府から移籍された在籍艦艇がありますが、かつて戦艦三笠などを擁した舞鶴ですが、今回移籍したのは巡洋艦が最大のわずかな艦艇でした。内令提要によれば復活直後の在籍艦艇は以下の通りです。

・二等巡洋艦 天龍、龍田、木曽、長良、名取、利根、筑摩
・水上機母艦 神威
・海防艦 吾妻
・一等駆逐艦 羽風、秋風、夕風、太刀風
・二等駆逐艦 朝顔、芙蓉、刈萱
・一等潜水艦 伊号第52潜水艦
・二等潜水艦 呂号第63、第64、第68潜水艦
・水雷艇 千鳥、鴻、鵯、隼、鵲
・特務艦 鳴門、室戸

 一見してわかるとおり大正期の旧式艦が大半で、水雷艇が比較的若いと思えるくらいです。その中で利根型重巡洋艦2隻は最新の有力艦で、俗に「舞鎮戦艦」と呼ばれたそうですが、逆に言うとこの2隻だけが戦力として有効だったのでしょう。戦艦も空母も配備されなかったのですが、のちには空母が在籍しました。龍鳳や神鷹といった改造空母に交じって、最新鋭の空母大鳳が舞鶴鎮守府籍に編入されたのは昭和19(1944)年3月のことでした。もっとも、大鳳が建造されたのは神戸で、竣工後は瀬戸内海での慣熟訓練ののち聯合艦隊に編入されて第一機動艦隊の旗艦として南方に赴き、わずか3ヶ月後にマリアナ沖に沈んでしまったため、母港であったはずの舞鶴を見たことはなかったようです。

 大戦末期には鎮守府部隊も海軍総隊に編入されて事実上聯合艦隊の指揮下に入り、本土決戦に備えて各所に特攻部隊が配置されましたが、日本海側を担当する舞鶴鎮守府管内には舞鶴軍港を防衛するために舞鶴防備隊が置かれたほかにはほとんど空白地帯となっていました。

 敗戦を経て、昭和20(1945)年11月いっぱいで舞鶴鎮守府は他の鎮守府とともに廃止されました。太平洋戦争開戦直前の昭和16(1941)年11月20日に要港部は警備府と改称し、司令官の肩書は司令長官に格上げされました。すでに昭和13(1938)年に要港部司令官は(舞鶴以外も含めて)親補職とされていたので基本的には名称だけの違いですが、仮に舞鶴要港部が昭和14年に格上げされなくても、それから2年も経たないうちに警備府と改称していたはずでした。
 鎮守府と警備府の違いは艦船と兵員の管理を担っているかどうかが大きいと考えますが、舞鶴籍の艦船は比較的少なく、むしろそのための人員確保が問題だったのでしょう。人事業務の負担分散という意味は当然あったのでしょうが、現実には戦時中急増した兵員を管理するために各地に海軍人事部や地方人事部が置かれることになり、舞鶴ひとつが増えたくらいではどうにもならなくなっていました。後知恵ではありますが、結果的にはどうしても舞鶴を鎮守府にしなければいけない必然性はやはり思いつかないのです。

おわりに

 お久しぶりです。

 ふと思いついたテーマでしたが、文中にも書いた通り防衛研究所の戦史叢書がここ何週間かメンテナンスと称してずっとアクセスできない状態だったので調べが進まず仕舞いでした。予定では週末だけだったはずなのに、いつ終わるのか見当もつかず、見通しも一向に知らされないので見切りで公表することにします。もし今後アクセスできるようになって、参照した結果修正が必要になったら追記するようにします。

 ではもし機会がありましたらまた次回お会いしましょう。

(カバー画像は舞鶴海軍記念館=旧海軍機関学校大講堂。海上自衛隊舞鶴地方隊HP)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?