日本海軍の階級について (4)機関科
今回は機関科について。
前回までの記事は以下になります。
機関科
日本海軍が誕生したころはちょうど軍艦に広く蒸気機関が採用された時期でもあった。手本としたイギリス海軍と異なり、はじめから機関を担当する要員が海軍部内に存在していたが、イギリス海軍の伝統に基づく差別的な制度をそのまま導入してしまったことが、最後まで尾を引くことになる。
ここでは機関科に加えて、派生した整備科、工作科についてもあわせて述べる。機関科のうち航空機の整備に従事するものは昭和5(1930)年に新設された航空科に移されたが、昭和9(1934)年に整備科として分離した。工作科は昭和13(1938)年に新設され金属・木製部品の修理製造、潜水作業などを担当した。なお昭和5(1930)年まで船匠科があった。
機関科、工作科の識別線は紫色で潤滑油の色に由来するという。整備科の識別線は緑色である。
機関科、整備科、工作科の実役停年や現役定限年齢、袖章の線の数などは兵科と同一であるため省略する。その他、特に触れなかった点については同様に理解いただきたい。機関科特有の現象についてのみ、必要に応じて記す。次回以降についても同様である。
兵(機関科、整備科、工作科)
機関科の兵卒は「機関兵」であるが古くは「火夫」と呼んだ。一等火夫から五等火夫までが存在したが日清戦争後の明治28(1895)年に一等機関兵から五等機関兵と改称される。大正4(1915)年に特務士官以下の兵科呼称がはじめて制定され「機関科」と呼ばれることになる。大正9(1920)年には五等機関兵が廃止された。
昭和17(1942)年11月1日に一等ないし四等兵と呼んでいた兵の階級を陸軍と同様の兵長、上等兵、一等兵、二等兵に改めた。
四等機関兵(のち二等機関兵)・四等整備兵(のち二等整備兵)・四等工作兵(のち二等工作兵)は最下級である。
三等機関兵(のち一等機関兵)・三等整備兵(のち一等整備兵)・三等工作兵(のち一等工作兵)はその上級となる。
二等機関兵(のち上等機関兵)・二等整備兵(のち上等整備兵)・二等工作兵(のち上等工作兵)はさらに上級となる。
一等機関兵(のち機関兵長)・一等整備兵(のち整備兵長)・一等工作兵(のち工作兵長)は兵の最上級になる。
下士官、准士官(機関科、整備科、工作科)
機関科の下士官はもと「機関手」と呼んでいたが明治29(1896)年に「機関兵曹」と改称した。昭和17(1942)年11月1日に一等ないし三等兵曹と呼んでいたものを上等兵曹、一等兵曹、二等兵曹と改めた。
三等機関兵曹(のち二等機関兵曹)・三等整備兵曹(のち二等整備兵曹)・三等工作兵曹(のち二等工作兵曹)は判任官四等に相当する。
二等機関兵曹(のち一等機関兵曹)・二等整備兵曹(のち一等整備兵曹)・二等工作兵曹(のち一等工作兵曹)は判任官三等に相当する。
一等機関兵曹(のち上等機関兵曹)・一等整備兵曹(のち上等整備兵曹)・一等工作兵曹(のち上等工作兵曹)は判任官二等に相当する。
機関科の准士官はもと「機関師」と呼んでいたが明治29(1896)年に「上等機関兵曹」と、さらに大正9(1920)年に「機関兵曹長」と改称した。
機関兵曹長・整備兵曹長・工作兵曹長は判任官一等に相当する。
特務士官(機関科、整備科、工作科)
大正4(1915)年に特務士官が創設され機関兵曹長と称した。大正9(1920)年に三階級となり機関特務大尉ないし少尉と改称した。昭和17(1942)年11月1日に科名および「特務」の文字列をのぞいてそれぞれ大尉ないし少尉に改称した。
機関特務少尉・整備特務少尉・工作特務少尉(いずれものち少尉)は高等官八等(奏任官六等)に相当する。
機関特務中尉・整備特務中尉・工作特務中尉(いずれものち中尉)は高等官七等(奏任官五等)に相当する。
機関特務大尉・整備特務大尉・工作特務大尉(いずれものち大尉)は高等官六等(奏任官四等)に相当する。
機関特務大尉、整備特務大尉、工作特務大尉を特選により士官に任用する場合はいずれも機関少佐となる。士官には整備科、工作科は存在しない。
士官(機関科)
明治のはじめ日本海軍が創設された時には機関官は軍医などと同じ「乗組文官」のひとつという扱いだった。機関官が武官になったのは明治5(1872)年(または明治15年)であり、当時の最高官は中佐相当だった(当時の官等は後世と異なる)。
明治6(1873)年に機関官を機関科と改称し、明治9(1876)年に最高官は大佐相当になった。明治15(1882)年に最高官は少将相当となったが、明治19(1886)年に技官と合して機技部を設けた。ここでは機技部のうち機関科に関する部分だけを説明し、技術系についてはのちの回で触れることにする。
明治29(1896)年、機技部を廃止して機関官と技術系の各官に分離した。明治32(1899)年には機関官の最高官が中将相当の高等官一等となった。日露戦争直後の明治39(1906)年に階級呼称を独自のものから兵科に似たものに改めた。
大正4(1915)年には高等官である機関官を機関将校と改称し、さらに大正9(1920)年には兵科とあわせて将校とし、機関科将校を設けた。
大正13(1924)年に機関科将校のうち将官については兵科と統合された。
軍令承行令で指揮権の継承順位を定めていたが機関科将校は兵科将校に次ぐとされていた。これは機関大尉は兵科の大尉に次ぐという意味ではなく、機関大佐が兵科の少尉の指揮を受けることがあり得るということを意味していた。
昭和17(1942)年11月1日、機関科将校は兵科に統合されて区別としてはなくなったが終戦まで完全な統合はできなかった。
尉官以下(機関科)
機関科士官の養成は海軍機関学校で行なったが、明治の半ばに制度が確立するまでは曲折があり海軍兵学校の卒業生から任用された時期もあった。
海軍機関学校に合格して入校すると生徒となり海軍兵籍に編入された。准士官の下、下士官の上に位置付けられた。
海軍機関学校は昭和19(1944)年に廃止されて海軍兵学校舞鶴分校となった。機関科の術科学校である海軍工機学校が海軍機関学校と改称した。
生徒課程を修了すると機関少尉候補生を命ぜられる。明治39(1906)年までは少機関士候補生と称した。海軍部内限り奏任官待遇を受けた。昭和17(1942)年に兵科の少尉候補生に統合された。
機関少尉は高等官八等(奏任官六等)に相当する。明治39(1906)年までは少機関士と称した。昭和17(1942)年に兵科の少尉に統合された。
初級士官で、航海長や砲術長などの科長を補佐する航海士や砲術士などの、いわゆる「士配置」があるが機関科においては「機関士」とは呼ばず「機関長附」、通称「チョーヅキ」と呼んだ。階級との混同を避けたものが後世にまで残ったらしい。
機関中尉は高等官七等(奏任官五等)に相当する。明治39(1906)年までは中機関士と称した。昭和17(1942)年に兵科の中尉に統合された。
明治19(1886)年から明治30(1897)年までは中機関士の階級はなく高等官七等たる大機関士とされた。
機関大尉は高等官六等(奏任官四等)に相当する。明治39(1906)年までは大機関士と称した。昭和17(1942)年に兵科の大尉に統合された。
佐官(機関科)
機関少佐は高等官五等(奏任官三等)に相当する。明治39(1906)年までは機関少監と称した。昭和17(1942)年に兵科の少佐に統合された。
機関中佐は高等官四等(奏任官二等)に相当する。はじめ機関大監と称し機関官の最高官だったが明治9(1876)年に機関中監と改称した。明治39(1906)年に機関中佐と称したが昭和17(1942)年に兵科の中佐に統合された。
明治19(1886)年から明治30(1897)年まで機関中監の階級はなく高等官四等たる機関大監とされた。
機関大佐は高等官三等(奏任官一等)に相当する。明治9(1876)年に機関大監として新設された。当時は機関官の最高官である。明治39(1906)年に機関大佐と称したが昭和17(1942)年に兵科の大佐に統合された。
機関大佐は艦長にはなれない。艦長にかぎらず駆逐隊や潜水隊、航空隊などの部隊の長にはなれず、科長たる機関長、整備長、工作長どまりである。
艦隊司令部の機関長、通称「カタキ」は機関大佐が通例である。「カタキ」は機関科士官としては最高の海上配置とされた。
将官(機関科)
機関少将は高等官二等(勅任官二等)に相当する。明治15(1882)年に機関総監として新設された。明治19(1886)年には機技総監に改編されたが明治29(1896)年に機関総監に復帰した。明治32(1899)年に機関総監が高等官一等ないし二等になり最高官等が高くなる。明治39(1906)年、機関総監のうち高等官二等に相当するものが機関少将と改称する。大正13(1924)年、兵科の少将に統合された。
機関少将(あるいは機関学校出身の少将)には既述のとおり海上配置はない。海軍工廠などの工作庁の長や部長、艦政本部の部長、機関関係の学校長、軍港所在の艦船部長や軍需部長といったものが主なポストになる。兵科の同階級者に比べて圧倒的に少なく、昇進に不利であることは否めない。
機関中将は高等官一等(勅任官一等)に相当する。明治32(1899)年に機関総監の官等が二等から一等ないし二等に変更された。明治39(1906)年に高等官一等の機関総監は機関中将と改称されたが、大正13(1924)年に兵科の中将に統合された。
機関中将(あるいは機関学校出身の中将)が就けるポストは限られている。海軍機関学校長と海軍省軍需局長がほぼすべてで、後者は機関科将校のトップポストとみなされていた。
大正13(1924)年の機関科将官の兵科への統合で、制度的には機関学校出身の将校へも大将に昇進する可能性が開けた。しかし現実にはそこにたどりつくまでに充分なポスト自体が用意されておらず難しかった。
昭和に入って、海軍省の外局で特に重視されていた艦政本部の本部長に相次いで機関学校出身の中将が就任すると大将昇進が期待されたが、3人の候補者のうち1人目は技術部門の最高責任者として友鶴事件の責任をとって辞職し、2人目は在職中に病死し、3人目は終戦で昇進がかなわなかった。結局、機関科出身の大将は実現しなかった。
おわりに
かなり端折ったつもりでしたが思ったより長くなってしまいました。頑張って読んでいただけたら嬉しいです。
次回は主計科を予定しています。
ではまた次回お会いしましょう。
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