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日本海軍の階級について (5)主計科

 今回は主計科についてです。
 前回までの記事は以下になります。

主計科

 主計科では経理会計を主に担当したが、給与の一貫として被服や食事もつかさどる。いわゆる「飯炊き」も主計科の役割でそのための専任の兵が各艦船や部隊に配属されていた。

 はじめは文官だったが明治5(1872)年に武官となった。当時は主計と秘書にわかれていたが明治15(1882)年に統合された。兵卒の階級には「割烹夫」「造麺夫」など職務の内容がうかがわれるバラエティに富んだものが含まれていたが、明治19(1886)年に整理されて「厨夫」に統一された。

 大正8(1919)年に士官の、翌年に特務士官以下の階級名が全面的に改定されて兵科にならったものとなった。

 主計科の識別線は白色である。経理をつかさどることから金の色をモチーフとしたといわれる。

兵(主計科)

 明治19(1886)年に兵卒の階級が整理されて一等ないし五等ごとう厨夫ちゅうふとされたが明治28(1895)年に一等ないし五等主厨しゅちゅうに改称された。
 大正9(1920)年に五等兵が廃止され一等ないし四等主計兵と改称する。昭和17(1942)年に陸軍にあわせるかたちで主計兵長、上等主計兵、一等主計兵、二等主計兵と改められた。

 四等よんとう主計兵しゅけいへい(のち二等主計兵)は最下級である。

 三等さんとう主計兵(のち一等主計兵)はその上級である。

 二等にとう主計兵(のち上等じょうとう主計兵)はさらに上級である。

 一等いっとう主計兵(のち主計しゅけい兵長へいちょう)は兵の最上級である。

下士官、准士官(主計科)

 明治19(1886)年に下士卒の階級が整理されたときに主計科には筆記ひっき(一等ないし三等)と主厨しゅちゅう(同)の二種類の下士官が含まれた。前者は会計系、後者は給食系ということだろう。明治22(1889)年に統合されて主帳しゅちょうとされたが、明治29(1896)年に再度筆記と厨宰ちゅうさいに分離された。
 大正9(1920)年に主計兵曹と改称する。昭和17(1942)年にはそれまで一等ないし三等としていたものを上等、一等、二等とした。

 三等さんとう主計しゅけい兵曹へいそう(のち二等主計兵曹)は判任官四等に相当した。大正9(1920)年までは三等筆記ひっき・三等厨宰ちゅうさいであった。

 二等にとう主計兵曹(のち一等主計兵曹)は判任官三等に相当した。大正9(1920)年までは二等筆記・二等厨宰であった。

 一等いっとう主計兵曹(のち上等じょうとう主計兵曹)は判任官二等に相当した。大正9(1920)年までは一等筆記・一等厨宰であった。

 明治22(1889)年に下士官が統合されたのと同じタイミングで准士官の上等主帳が新設された。明治29(1896)年に下士官が再分離されたときには上級筆記とされた。准士官ともなれば厨房作業は卒業ということだろうか。
 大正9(1920)年に主計兵曹長と改称した。

 主計兵曹長へいそうちょうは判任官一等に相当した。大正9(1920)年までは上等筆記であった。

特務士官(主計科)

 明治30(1897)年に高等官(奏任官六等)である准士官がもうけられ筆記長ひっきちょうとされた。大正4(1915)年には特務士官とされ、大正9(1920)年に三階級となり最高官が高等官六等(奏任官四等)となった。昭和17(1942)年には「特務」の文字列が階級から除かれた。

 主計しゅけい特務とくむ少尉しょうい(のち主計少尉)は高等官八等(奏任官六等)に相当した。

 主計特務中尉ちゅうい(のち主計中尉)は高等官七等(奏任官五等)に相当した。

 主計特務大尉だいい(のち主計大尉)は高等官六等(奏任官四等)に相当した。

 主計特務大尉は特選で士官である主計少佐に任用され得た。

士官(主計科)

 海軍が創設された当時は機関官や軍医官とならんで「乗組四文官」に数えられた。当時は秘書と主計にわかれていた。明治5(1872)年(または明治15年)に武官となる。当時の最高官は中佐相当である。
 明治9(1876)年に最高官が大佐相当に、明治15(1882)年には少将相当になる。その明治15(1882)年に秘書官が主計官に統合される。明治32(1899)年には最高官が中将相当となった。
 大正8(1919)年に階級呼称が兵科にならって改められた。

尉官以下(主計科)

 海軍経理学校の生徒課程では主計科士官を養成しており、採用されて入校すると生徒せいとの身分を得て海軍兵籍に編入された。准士官の下、下士官の上に位置付けられた。

 卒業すると主計しゅけい少尉しょうい候補生こうほせいを命ぜられる。海軍部内かぎり高等官待遇とされた。大正8(1919)年までは少主計しょうしゅけい候補生と称した。

 もともと主計科士官は大学などで教育をうけた者を採用する方式をとっていた。明治の後半になって部内で生徒課程による養成がはじまったあとも制度としては残っていた。生徒と外部採用を並行しておこなっていた時期もあった。
 この制度を利用して昭和13(1938)年にはじまったのが主計科二年現役士官制度だった。大学の法学部・経済学部卒業者を主計中尉に、専門学校(現在の短大に相当)卒業者を主計少尉に任用して2年間だけ現役として勤務させ、その後は予備役に編入して戦時に召集するというものだったが、経理学校卒業者から不満が出たらしい。自分達は生徒と候補生を経験してようやく少尉になれるのに、海軍での経験が全くないものにいきなり少尉や中尉に任ぜられるのは不公平だ、というのである。
 そこで昭和17(1942)年、少尉や中尉に任用する前に少なくとも2ヶ月の見習みならい尉官いかんを経ることとされた。候補生と同じく部内かぎり高等官待遇である。

 主計しゅけい少尉しょういは高等官八等(奏任官六等)に相当する。大正8(1919)年に少主計しょうしゅけいから改称された。明治15(1882)年に少秘書しょうひしょが統合された。少秘書が創設されたのは明治6(1873)年である。

 主計中尉ちゅういは高等官七等(奏任官五等)に相当する。大正8(1919)年に中主計ちゅうしゅけいから改称された。明治15(1882)年に中秘書ちゅうひしょが統合された。中秘書が創設されたのは明治6(1873)年である。
 明治19(1886)年から明治30(1897)年まで中主計の階級は廃止され、高等官七等たる大主計とされた。

 主計大尉だいいは高等官六等(奏任官四等)に相当する。大正8(1919)年に大主計だいしゅけいから改称された。明治15(1882)年に大秘書だいひしょが統合された。大秘書が創設されたのは明治6(1873)年である。

佐官(主計科)

 主計しゅけい少佐しょうさは高等官五等(奏任官三等)に相当する。大正8(1919)年に主計少監しょうかんから改称された。明治15(1882)年に少秘史しょうひしが統合された。少秘史ははじめ少秘書と称したが明治6(1873)年にごん秘書官ひしょかんに、明治9(1876)年に少秘史と改称していた。

 主計中佐ちゅうさは高等官四等(奏任官二等)に相当する。大正8(1919)年に主計中監ちゅうかんから改称された。明治15(1882)年に中秘史ちゅうひしが統合された。中秘史ははじめ大秘書だいひしょと称したが明治6(1873)年に秘書官ひしょかんに、明治9(1876)年に中秘史と改称していた。
 明治19(1886)年から明治30(1897)年まで、主計中監の階級は廃止され、高等官四等たる主計大監とされた。

 主計大佐だいさは高等官三等(奏任官一等)に相当する。大正8(1919)年に主計大監たいかんから改称された。明治15(1882)年に大秘史だいひしが統合された。大秘史は明治9(1876)年に創設された。

 機関科と同様に、主計科士官の海上での最高配置は艦隊司令部の主計長、通称「カタシケ」で通例主計大佐である。

将官(主計科)

 主計しゅけい少将しょうしょうは高等官二等(勅任官二等)に相当する。大正8(1919)年に改称された。明治15(1882)年に少将相当の主計総監そうかんが創設され、明治32(1899)年には主計総監の階級はそのままで官等が高等官一等ないし二等に広げられた。大正8(1919)年に主計総監のうち高等官二等のものが主計少将とされた。
 主計少将の主なポストは軍港所在地の経理部長(鎮守府主計長を兼ねるのを例とした)、艦政本部や航空本部の会計部長、海軍工廠の会計部長などであった。

 主計中将ちゅうじょうは高等官一等(勅任官一等)に相当する。大正8(1919)年に主計総監のうち高等官一等のものが主計中将とされた。
 主計中将のポストは海軍経理学校長と海軍省経理局長がほぼすべてで、海軍省経理局長が主計科士官の最高ポストとみなされた。

 主計科士官には親任官(大将相当)は設定されていない。

おわりに

 主計科は経理から飯炊きまで範囲が広く、兵から将官まで揃っていて、どの部隊にもどの官庁にも顔を見せる存在でもあり、歴史も古いので兵科以外の代表としてまずとりあげました。

 次回は医務関係、つまり軍医科、薬剤科、歯科医科、看護科をとりあげます。

 ではまた次回お会いしましょう。

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