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日本海軍の階級について (3)兵科(士官)

 今回は兵科のうち士官について。
 前回までの記事は以下になります。

士官

 古くは海軍士官のうち兵科だけを将校しょうこうと呼んだ。ようやく大正4(1915)年12月2日に機関科の海軍士官を機関将校と呼ぶようになり、大正9(1920)年4月1日から両者をあわせて将校としそれぞれ兵科将校、機関科将校とした。昭和17(1942)年11月1日に兵科将校に統合された。
 将校以外の士官は将校相当官とされ、将校とは呼ばれなかった。

尉官以下(兵科)

 海軍兵科将校になるには、海軍兵学校を卒業するのがほぼ唯一の方法で、あとは特務大尉から士官である少佐に特選されるか、予科練出身の飛行科特務士官が士官に任用されるくらいのごく限られた事例しかない。

 海軍兵学校に合格して入校すると海軍兵籍に編入され生徒せいとの身分を与えられる。生徒は下士官の上、准士官の下に位置付けられた。

 海軍兵学校を卒業すると少尉しょうい候補生こうほせいを命ぜられる。海軍武官官階に記載された階級だが「部内限り高等官待遇」という扱いで厳密な意味での官吏とはされなかった。
 候補生はまず練習艦隊で遠洋航海を行なったあと、艦隊の各艦艇に配属されて現場で実務を学んだ。
 候補生の袖章は通常の半分の太さの線が1本で、半人前の意味をかけて「ハーフ」と呼ばれた。

 少尉しょういに任官すれば晴れて海軍武官となる。高等官八等(奏任官六等)に相当する。
 しかし士官としてはまだ見習い期間といえ候補生時代と勤務はあまり変わらない。配属された分隊で分隊長の補佐をしたり、科長から研究課題をもらったりするかたわら、甲板士官や艦載艇の艇指揮チャージを勤めたりした。実際に艦載艇の運転を行なうのは下士官や准士官の艇長である。また当直将校の補佐として副直将校を勤めた。
 少尉から中尉にかけて、海軍砲術学校普通科学生課程、海軍水雷学校普通科学生課程、海軍航空隊付の3ヶ所を合計1年ほどかけて経験するのが例となっていた。こうした経験を経て自分の希望や適性を見極める意味があったのだろう。
 少尉から昇進するために必要な実役停年は1年である。ただし、最低限の実役停年で昇進するのは皇太子くらいで皇族でもこれより長いのが通例である。平時では倍くらいかかるのが普通だった。
 少尉の袖章は通常の太さの線が1本である。現役定限年齢(定年)は40歳だった。

 中尉ちゅういは高等官七等(奏任官五等)に相当する。だいぶ実務に慣れてきているはずだが、まだ半人前扱いである。分隊士、あるいは例えば航海士など、分隊長や科長を補佐する役割を与えられる。こうした「○○士」を一般に「士配置」と総称した。辞令としては「乗組士官」で艦長が職務を指定する。
 中尉以下は初級士官と呼ばれ艦内での居住区も大尉以上とは別である。士官次室じしつは「ガンルーム」とも呼ばれた。帆船時代に砲の間にハンモックを吊って寝起きしていた名残りだという。士官次室でもっとも先任の者を士官次室長、通称「ケプガン」と呼び通常は最古参の中尉があたることになる。
 そろそろ将来の専門を見据えて技能習得を考慮する時期になる。例えば飛行機乗りをめざすなら飛行学生を、潜水艦乗りをめざすなら海軍潜水学校の乙種学生課程を修める必要がある。
 中尉の実役停年は1年6月である。中尉の袖章は通常の太さの線が1本、半分の太さの線が1本で都合「一本半」となる。現役定限年齢は40歳である。

 なお、明治19(1886)年から明治30(1897)年までは中尉の階級はなく、高等官六等の大尉と高等官七等の大尉があった。日本海軍が手本としたイギリス海軍にあわせたものだが陸軍との違いが不都合だったらしく比較的短期間で旧に複した。

 大尉だいいは高等官六等(奏任官四等)に相当する。なお海軍では「いい」と濁って読むのが一般的だった。大尉の袖章は通常の太さの線が2本である。現役定限年齢は45歳だった。
 ようやく一人前の士官とみなされ、分隊長や、航海長などの科長を勤め、当直士官を任されるようになる。もっとも、大尉の実役停年は4年と長く、実際には7〜8年のあいだ大尉にとどまるのが普通で、ひと口に大尉といっても初任から古参まで幅広い。
 大尉になれば居室も士官室に移る。士官室のボスは副長である。艦隊においても中尉までは「乗組士官」という扱いであるが、大尉となり分隊長に任ぜられるようになると海軍省から「補軍艦○○分隊長」という辞令が出されることになる。
 分隊は艦艇のみならずおよそ兵の配置がある全ての海軍組織の基礎になるもので、陸軍の中隊に相当する。18世紀半ばにイギリス海軍で考案されたものだが、それまで単に数として扱われていた水兵を分隊にわけてそれぞれに士官の分隊長をおき、平素から訓練や指導に責任を持たせた。分隊長は麾下分隊員の日常生活まで管理して評価した。分隊長が執筆する考課表は詳細をきわめ、実情を正確に示すために「俗語の類を使用することも妨げず」とされていた。

 もっとも負担とされていたのは当直将校である。当直中は艦の保全に責任をもつ立場にあり、なんらかの事故があればまず責任を問われるのが当直将校である。航海中は(艦長と航海長の監督のもとで)操艦にもあたらなければならない。海軍航海学校には普通科学生課程は存在しない。兵科将校全員が当直将校として操艦を行なえる必要があるので、海軍兵学校で学ぶ範囲なのである。海軍航海学校の航海学生課程は他の術科学校での高等科学生課程に該当する。

 大尉のうちには術科学校の高等科学生課程を経ることが多い。普通科学生のようにいくつも経ることは少なく、このころには大体専門が決まってくる。例えば航海学生は航海長、砲術高等科学生は砲術長として勤務するために必要な知識技能を習得することを目的としている。高等科学生を終えればひとかどの「航海屋」「鉄砲屋」である。高等科を終えて古参の大尉になれば航海長、砲術長、水雷長といった科長にも任ぜられるようになる。
 飛行科(兵科としての飛行科ではなく、艦内編制としての飛行科)では科長である飛行長の下に飛行隊長が置かれた。飛行隊長は実際に飛行機に搭乗して指揮をとる。飛行長は実際に飛行機に搭乗して勤務することは通常はしない。

 専門にもよるが小艦艇の艇長や艦長を命ぜられるのもこのころからである。比較的旧式な駆逐艦や潜水艦、特務艇などの艦長や艇長は大尉か少佐である。早く一国一城の主になれるからと水雷を希望する者もいたらしい。
 駆逐艦や潜水艦には副長はおらず、ほかの将校のうち最先任の者が「先任せんにん将校」として艦長の補佐役を務めた。

佐官(兵科)

 少佐しょうさは高等官五等(奏任官三等)に相当する。袖章は通常の太さの線が2本、半分の太さの線が1本で都合「二本半」となる。少佐の実役停年は2年である。現役定限年齢は47歳だった。
 少佐となれば駆逐艦や潜水艦では艦長、大型軍艦では航海長や砲術長、水雷長、通信長、運用長、飛行長などの科長をつとめる。科長は分隊長を兼務することもある。科長になると当直は免除されることが多い。

 参謀や高級指揮官の養成課程である海軍大学校甲種学生は、大尉から少佐にかけて履修するのが一般的である。海軍大学校に進めるのはごくおおまかに言って同期生全体の1割から2割程度であろう。
 海軍大学校卒業者は、艦隊勤務と中央での勤務をバランスよくこなすのが出世コースだとされた。中央では海軍省や軍令部で部員として事務や企画にあたる。艦隊では通常の艦艇配置に加えて、艦隊や戦隊の司令部での参謀勤務も交じることになる。
 なおこれは海軍大学校にかぎった話ではないが、教育をうけたものがその学校で教官として教える立場になることがあった。これを俗に「御礼奉公」と称した。

 中佐ちゅうさは高等官四等(奏任官二等)に相当する。袖章は通常の太さの線が3本である。中佐の実役停年は2年である。現役定限年齢は50歳だった。
 軍艦や航空隊、駆逐隊などの副長は基本的に中佐であるが、駆逐艦長を中佐で務める例がある一方で、一部の軍艦の艦長や特務艦長、駆逐隊や航空隊の司令を中佐で務める例もあり、いかにも少佐と大佐の中間という感がある。

 中尉とおなじく、明治19(1886)年から明治30(1897)年までの期間、中佐の階級は廃止されており高等官四等である大佐とされていた。

 大佐だいさは高等官三等(奏任官一等)に相当する。「だいさ」と濁って読むのが一般的だった。袖章は通常の太さの線が4本である。大佐の実役停年は2年である。現役定限年齢は54歳だった。
 海軍では将校は大佐までは昇進させることにしていたといわれる。士官学校卒業者の大半が大尉どまりで予備役になる陸軍とは趣が異なった。
 大佐はもっとも油がのった時期とされ、中央官庁では課長クラス、艦隊司令部では先任参謀、軍艦の艦長、駆逐隊、潜水隊や航空隊の司令などを務める。駆逐艦や潜水艦は複数を束ねた駆逐隊や潜水隊が軍艦1隻に相当し、軍艦艦長と駆逐隊や潜水隊の司令は同格とされた。術科学校や海軍兵学校の教頭も多く大佐が務めた。

将官(兵科)

 少将以上は広義の勅任官であり「閣下」と呼ばれる。

 少将しょうしょうは高等官二等(勅任官二等)に相当する。袖章は太い線が2本、通常の太さの線が1本である。実役停年は3年、現役定限年齢は58歳だった。
 中央官庁では局長・部長クラス、艦隊や鎮守府ではその一部を指揮する戦隊司令官や司令部参謀長に任じられた。その他、海軍工廠長や術科学校長も多く少将が務めた。なお海軍次官は少将または中将をあてるとされていたが実際には少将で就任した例は多くない。

 中将ちゅうじょうは高等官一等(勅任官一等)に相当する。袖章は太い線が2本、通常の太さの線が2本である。現役定限年齢は62歳。実役停年の定めはなく序列にしたがって昇進する。大将になれない者はその順序がくる前に現役を離れるということである。
 中央官庁では重要部局の長、海軍省の外局である艦政かんせい本部や航空本部の本部長、海軍次官や軍令部次長、艦隊や鎮守府の司令長官、海軍大学校長などを務めた。
 中将にまでいたれば制度上は海軍におけるどんな職にも就くことができる。大将以上を必須とする職はない。海軍大臣や聯合艦隊司令長官にも就任できるし、実例も多い。

 大将たいしょうは親任官である。袖章は太い線が2本、通常の太さの線が3本である。現役定限年齢は65歳。
 海軍大臣、軍令部総長といった中央官庁の長、重要な艦隊や鎮守府の司令長官、天皇の軍事顧問である軍事参議官などを務める。実際の運用では軍令部総長は大将が補職されたが、前身の海軍軍令部長には明治時代に中将で就任した事例がある。

 陸海軍大将のうち特に功績が著しく見識が高いものを選抜して元帥げんすいの称号を与えて天皇の最高軍事顧問とした。日本では元帥は大将の一部に与える称号であって階級ではない。階級はあくまで大将である。ただし元帥である大将は現役定限年齢を定めず、生涯現役とした。
 皇族以外では、戦時に大きな功績があったものに限るという不文律があったといわれる。海軍大将全77名のうち元帥の称号を得たのは13名(うち皇族は3名)であった。

おわりに

 ずいぶん長くなってしまいましたが、兵科にかかわらず共通する内容の多くを盛り込んだためです。
 次回は機関科について書きますが、士官以下兵までを含めてもずっと短くまとめるつもりです。

 ではまた次回お会いしましょう。

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