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A Course in Miracles 学習&実践レポート

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『A Course in Miracles』(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びと実践を通して、もりGが体験的に理解したこと、実際に修得していっているもの、その成果として体…
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#ヴィジョン

「ただ在る」という神の在り方を修得する

「ただ在る」という神の在り方を修得する


「私はいない」といくら知っていても意味をなさないその理由ノンデュアリティのスピーカーさんたちがよく言葉にする、

「私はいない」

という概念は、たしかに真理を述べているとも言えますが、ただし、それだけでは不十分だと言うことができます。

それは「行為者はいない」ということを意味するわけですが、そのことをいくら知ったところで、ほとんど助けにならないからです。

なぜなら、私たちは「私(自分)は存

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自分は誰なのか?を思い出していくための実践的な手段が、「赦し」です

自分は誰なのか?を思い出していくための実践的な手段が、「赦し」です


学びの深化とはどういうものかコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びが深化していくにつれて、不思議な感覚になっているのを実感します。

というのも、コースの教えが根付いていっていると同時に、もはやそれはコースが教えていることなのだろうか?という感覚になるからです。

もっといえば、それがコースでなくたって、他の非二元の霊性の道であってもいいと思えるようになってきたということです。

それ

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コースは「間接的なアプローチ」をとって非二元に至る霊性の道である

コースは「間接的なアプローチ」をとって非二元に至る霊性の道である

自我をありのままに見るコース(奇跡のコース/奇跡講座)は非二元(一元論)のスピリチュアリティ(霊性の道)であるということは言うまでもありません。

ただし、コースは非二元(真理)に至るまでのアプローチとして間接的なアプローチをとっていくところが、他の非二元のスピリチュアリティとはちがった特徴的なところだと言うことができます。

つまり、直接的に神と合一していくような一般的な非二元のスピリチュアリテ

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イエスや聖霊が見ているもの


自我を咎めずに見るコース(奇跡のコース/奇跡講座)の実践で私たちは「自我を咎めずに見る」という実践をしていくわけですが、

自我を咎めずに見るとは、いったいどういうことを言うのでしょう?

「咎めずに」とは、つまり、「ジャッジ(価値判断)なしに」ということです。

ただし、ジャッジなしに見るためには、すべてを全一に虚偽(幻想)として見る以外にないということです。

そのように見ることのできる視点

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ここは天国であり、同時に、ここは地獄の夢の中である

ここは天国であり、同時に、ここは地獄の夢の中である


そこに知覚されるものが虚偽であるとわかる瞬間赦しの瞬間とはどのようなものなのか?

赦しの視点(ヴィジョン)の知覚とはどのようなものなのか?

というとき、

つい私たちは、それを崇高な愛に溢れる体験のようなものだと捉えがちになります。

たしかに、そうといえばそうですが、そのような言葉に私たちは騙されないようにしなければなりません。

実際には、「赦しの視点」「ヴィジョン」はもっとクリア(明瞭

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想念はその源を離れない、投影が知覚を作り出す

想念はその源を離れない、投影が知覚を作り出す


この世界には問題などないこの世界には問題がたくさんあるかのように見えます。

それが世界の情勢であったり、あるいは個人的な仕事上の問題であったり、人間関係の問題であったり、健康の問題であったり、経済的な問題であったり、、、たくさん問題があるかのように見えます。

でも、コース(奇跡のコース/奇跡講座)の教えに基づいてその実践をしていくならば、外側の世界には何の問題もないということが体験的に理解さ

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心が変われば、世界が変わる

心が変われば、世界が変わる

悟りの視点、真の知覚を修得するということ心が変われば、世界が変わります。

ただし、それは見ている知覚が変わるのであって、外的なもの(形態)が変わるのではありません。

むしろ、外的なもの(形態)は何一つ変わりません。

ですから、正確に言うならば、

心が変わるとき、見えている知覚の仕方が変わる、

と言ったほうが的確でしょう。

それをコース(奇跡のコース/奇跡講座)では、「知覚の訂正」とか「

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「自我の平安」と「神の平安」のちがい

「自我の平安」と「神の平安」のちがい

神の平安はすべてを包含しているコース(奇跡のコース/奇跡講座)の実践をしていく上で、私たちは「自我の平安」と「神の平安」のちがいについて、しっかりと理解しておく必要があります。

というのも、「自我の平安」を「神の平安」と勘違いして、コースを実践しているつもりになっているケースがよくあるからです。

ふつう、私たちが平安と呼んでいるものは、ほぼと言っていいほど「自我の平安」だといえます。

いわゆ

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絶望を悟るとき、それは本当の希望が見い出されるとき

絶望を悟るとき、それは本当の希望が見い出されるとき


この世界を超えたところに私の望む世界があるコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の観点から見るならば、この世界は自我の思考体系が作り上げた世界であり、まさに、罪、罪悪感、恐れが基盤となった世界であると言うことができます。

そう、コースはこの世界について、「この世界は恐れと攻撃で作られている」と教えてくれているわけです。

であるにもかかわらず、私たちはそんな世界にいながらにして、自分だけ(

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神の教師という生き方について

神の教師という生き方について

手本を示すコース(奇跡のコース/奇跡講座)という霊性の道を歩む学習者たちは、その学びが深化していくにしたがって、やがては神の教師として生きはじめることになります。

それは、コースの学び自体が実践的なものとなっていくことを意味します。

つまり、訓練を通して学ばれていくプロセスになるということです。

ちなみに、コースを教えていくこと、つまり、コースの教えを誰かに伝えていくことが、神の教師として私

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個別の「私」から、一なる心である「私たち」へ

個別の「私」から、一なる心である「私たち」へ


私はいない私は肉体ではない。

もっといえば、「私」というものはいない。

「私」というものがない。

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びが深まっていくにつれて、そのことが体験的分かってくるようになります。

つまり、「私」というものも自分がでっち上げた想念でしかないと理解するようになっていくということです。

さらには、個別性、特別性、個人性というものが、いかに馬鹿げて狂った想念

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自我から見るならば、すべてが深刻です

自我から見るならば、すべてが深刻です

自我から見るのか?赦しから見るのか?コース(奇跡のコース/奇跡講座)の実践において私たちがしていくことは?

というなら、

自我から見るのか?赦しから見るのか?

の選択なのだといえます。

この世界を見るとき、二つの見方があるのだということです。

それをコースでは。

自我を教師するのか?聖霊を教師とするのか?

というふうな言い方をします。

コースの観点から見るならば、この世界には二つの

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真の知覚(ヴィジョン)はどのようにして開かれていくのか?

真の知覚(ヴィジョン)はどのようにして開かれていくのか?

この世界をどちらの目的で見るか真理から見れば、肉眼で見ているこの世界は、じつのところ、まったくの幻想であり、無意味であると言うことができます。

ただし、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の実践においては、この世界をただむやみに否定していくのではないということを知っておきましょう。

コースの実践で私たちに求められているのは、この世界をどちらの目的で見るか?ということです。

それは、自我

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