「自我の平安」と「神の平安」のちがい

神の平安はすべてを包含している

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の実践をしていく上で、私たちは「自我の平安」と「神の平安」のちがいについて、しっかりと理解しておく必要があります。

というのも、「自我の平安」を「神の平安」と勘違いして、コースを実践しているつもりになっているケースがよくあるからです。

ふつう、私たちが平安と呼んでいるものは、ほぼと言っていいほど「自我の平安」だといえます。

いわゆる、喜びと苦しみの間のフラットな感覚としてある平安のことですが、それは個人的な平安であり、つまりは、個別性というものを実在化させたまま「私は平安です」と言っているにしかすぎません。

それと比べて、「神の平安」はそれらとはまったく関係なく、この世のものとは一切関係なくただ在り続けている平安のことを言います。


このコースは次のように極めて簡潔に要約できる。

実在するものは脅かされない。
実在しないものは存在しない。
ここに神の平安がある。
(T-In.2:)

奇跡講座/中央アート出版社


「神の平安」というものは、すべてを包含しています

たとえ自分が平安だとしても、自分の周り(外側)に苦しんでいる人がいると知覚しているなら、それは「神の平安」とは言いません。

というのも、「神の平安」の視点から見ているなら、つまり、赦しの視点から見ているなら、もはやそれが問題だとは知覚されないだけでなく、むしろ、そこに無垢性、完全性が知覚されるからです。

「神の平安」とはそういうものです。

もしそれが個人的な平安であるとしたなら、それは自我の平安であり、代替(偽)の平安でしかないということです。

つまり、その代替の平安は「真の赦し」によってもたらされる神の平安とはちがうということです。

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