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#神の教師
悟りを生きている者の知覚とは、いったいどんな世界を見ているのでしょう?
ありのままに見るとはもし人生で起きていること、経験していることに対して何の意味付けすることもスピリチュアライズすることもないならば、私たちはこの人生をどのように捉えるようになるのでしょう?
じつのところ、それこそが「ありのままに見る」ということなわけです。
ですが、私たちはそのように見ることをひどく恐れています。
なぜなら、私たちは人生で起こる様々なことに意味付けをしたいからです。
人生に
自と他の分離のない生き方
”together or not at all”という一元的な思考システムを修得するノンデュアリティのスピリチュアリティにおいて、「私はいない」という言い方をします。
「私はいない」とは、別の言い方をするなら、「すべてが自分である」ということと同じ意味だということを知っておくと良いでしょう。
つまりは、個別性、特別性がないということです。
というのも、私たちはそもそもがワンネス(一体性/全一
投影に気づいていく実践をしていくことによってどうなるのか?
他者はいない、全一なる自分が在るだけコース(奇跡のコース/奇跡講座)では、「投影」という心理学用語が出てきます。
コースという霊性の道を歩んでいく上で「投影」についての理解は必須であり、その原理(仕組み)を理解しないかぎり、コースの実践はあり得ないと言うことができます。
実際に、コースの実践では投影に気づいていくことをしていくだけでなく、投影に気づいたならその投影の源である心に戻っていく訓練
神の教師という生き方について
手本を示すコース(奇跡のコース/奇跡講座)という霊性の道を歩む学習者たちは、その学びが深化していくにしたがって、やがては神の教師として生きはじめることになります。
それは、コースの学び自体が実践的なものとなっていくことを意味します。
つまり、訓練を通して学ばれていくプロセスになるということです。
ちなみに、コースを教えていくこと、つまり、コースの教えを誰かに伝えていくことが、神の教師として私
コースが神聖なのではなく、その内容が神聖なのだということ
コースの学びが深化していくときコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の教えを理解するようになっていくと、つまりコース形而上学を理解するようになると、かえってコース形而上学を武器にして、兄弟に対して、あるいは自分自身に対して、咎める、裁く、攻撃する、ということをしてしまうことがあります。
実際に、この私もそうでした。
コースの教えを歪曲している他のコース学習者に対して咎めたり、裁いたり、あ