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コースが神聖なのではなく、その内容が神聖なのだということ


コースの学びが深化していくとき

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の教えを理解するようになっていくと、つまりコース形而上学を理解するようになると、かえってコース形而上学を武器にして、兄弟に対して、あるいは自分自身に対して、咎める、裁く、攻撃する、ということをしてしまうことがあります。

実際に、この私もそうでした。

コースの教えを歪曲している他のコース学習者に対して咎めたり、裁いたり、あるいは、コースが教えている通りに実践できない自分を咎めたり、裁いたりしてしまうのです。

そのようなプロセスは、コースの学びが深まっていくとき、必ずと言っていいほど誰もが経験することだといえるでしょう。

実際の実践的なところから言えば、そこからが本格的な実践を通しての学びのはじまりになるといえます。

形而上学を知的に理解しただけの状態と、実践の中で体験的に学ばれる理解とでは、まったくちがうということです。

そして、私たちがしていくべきことは、体験的な理解と共に、それを根付かせていくことなのだということです。

その体験的な理解は、実践を通してしか学べないものであり、つまり、自分で自分に教え、学んでいくほかないということです。

そして、それこそがコースでいうところの自学自習たる所以だといえます。

私たちは咎め、裁きがやめられないという状態なわけですが、それはいわば、私たちにとっては当然なことであり、私たちはその咎め、裁きに気づいたならそれをレッスンの機会としていくことが求められているのだということです。

それによって知的に理解したコースの教え(コースの思考体系)をこんどは訓練を通して体験的理解へと落とし込んでいくプロセスになるのだということです。


コースが重要なのではなく、その内容が重要なのだということ

コースの思考体系、つまり、コース形而上学が訓練(実践)を通して根付いていくとき、どのような知覚になっていくのか?

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