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A Course in Miracles 形而上学

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『A Course in Miracles』((奇跡のコース/奇跡講座)から抜粋した引用文にちなんたnoteコラム
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#赦しのまなざし

深刻になってしまったときの救いの秘密

深刻になってしまったときの救いの秘密

深刻にならないという実践ではないコース(奇跡のコース/奇跡講座)の実践において私たちがしていくのは、深刻にならないという実践なのではありません。

というのも、私たちはつい、その実践においてなるべく深刻にならないようにしようとします。

コースでしていく実践は、そうではないということです。

むしろ、深刻になろうとしている、あるいは、深刻になりたがている自分の内側の心の動き(精神力動)を認識してい

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すべてが神聖な出会いである

すべてが神聖な出会いである


「特別な関係」と「神聖な関係」コース(奇跡のコース/奇跡講座)では、すべての出会いが「神聖な出会い(ホーリー・エンカウンター)」であると教えてくれています。

それが何を意味するのか?

というなら、私たちはすべての関り(関係性)を赦しのレッスンのきっかけとして使うことができるのだということです。

そう、そのような見方をしていくことが私たちが訓練してかなければならないものなわけです。

そうな

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愛について

愛について

愛をこの世界に反映したものが「赦し」です愛について言えることは、私たちは愛を知らないということです。

もっと正確に言うならば、この世界にいる私たちはまったくもって愛を忘れた状態になっていると言うことができます。

というのも、「自分はこの世界に居る」と信じているということ自体が、愛を忘れている状態であるからです。

ちなみに、コース(奇跡のコース/奇跡講座)でいうところの愛は、普段、私たちが「愛

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聖霊のヴィジョンについて

聖霊のヴィジョンについて

聖霊のヴィジョンとはどういうものか?聖霊はどのように見ているのか?

聖霊のヴィジョンとはいったいどういうものなのか?

それは、「赦しの視点」「赦しのまなざし」というふうに呼ばれています。

今回は、

聖霊のヴィジョンとはどのように知覚されているのか?

そのことについて書いてみようと思います。

「聖霊のヴィジョン」というものについて、それはきっときらびやかな至福と喜びに満ち溢れたようなもの

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その愚かさを認識しない限り、どうやって闘いを終わることができるというのでしょう

その愚かさを認識しない限り、どうやって闘いを終わることができるというのでしょう

誰もが自分と闘っているコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)が教えていることの理解が深まっていくにつれて、私たちは誰もが「殺すか殺されるか」という「神との闘い」をしているということが分かってきます。

私たちはその「神との闘い」をこの世界に投影しているだけであり、人や出来事や状況を変えて、ただそれを繰り返しているだけなのだといえます。

その「神との闘い」とは、つまるところ、「自分との闘い」な

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自分とはいったい何者なのか?何のために、なぜこの世界にいるのか?

自分とはいったい何者なのか?何のために、なぜこの世界にいるのか?

まったく別の見方があり、まったく別の在り方がある自分とは何者か?

自分は誰なのか?

私たちは、自分についてまったく分かっていないと言うことができます。

非二元の観点から言うなら、私たちは五官、知覚というものを駆使して、「自分はこの肉体である」というふうに偽の自分を自分であると自ら信じ込ませようとしていると言うことができます。

私たちはそのようにして自分の本性をすっかり忘れた状態になっていま

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時間の中にいる私たちにとっては、目覚めに至るプロセスがあるということ

時間の中にいる私たちにとっては、目覚めに至るプロセスがあるということ

一瞬にして目覚めるわけではないコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を学んでいる私たちがしていく実践とは、「聖霊と共に見る」「聖霊を教師とする」ということだと言うことができます。

それというのも、私たちはすでに自我を教師としてしまっているので、まずはそのことを自覚/認識して、それを訂正していく必要があるわけです。

私たちは「聖霊と共に見る」「聖霊を教師とする」という訓練を通して、聖霊の視点

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