見出し画像

書評:井戸川射子『ここはとても速い川』

私の変な趣味の一つに
「芥川賞を取った作家の芥川賞以外の代表作を読む」というのがある。
もちろん芥川賞作品も読むのだが、大体の作家というのは芥川賞以外に、群像新人文学賞とか太宰治賞とかの「純文学賞」で作家デビューを果たしていることが多い。
芥川賞は人気作家への登竜門だが、しかしその登竜門にチャレンジするにはなんらかの作品が必要だったりするのだ。
まあ、私の研究対象の村上龍などは別だが、彼の『限りなく透明に近いブルー』も一応群像新人文学賞を受賞し、芥川賞を受賞したという流れである。
なのでその作家が「作家に認められた経緯」というべき代表作を読むのは、結構面白い。

そこで、例に漏れず、最近『この世の喜びよ』で芥川賞を受賞した井戸川射子さんの『ここはとても速い川』という作品を読んだ。
野間文芸新人賞という権威ある純文学の賞を受賞した作品だ。もうこの賞を受賞している時点で、この人がバチバチの純文学作家であるということはわかる。
そして案の定、これは非常に面白い作品であった。
ストーリーとしては、児童養護施設に住む二人の少年の日常を描いた、と一言で済ますことができる。彼らは各々事情があるにせよ、すごい虐待をされていたり、いじめられたりしているわけではない。
ただ、関西弁で語られる地の文と、見たもの聞いたものをどんどん喋っていく視点は読んでいて気持ち良い。この地の文を方言にし、饒舌体で語らせるというのは流行りの形式だと言えるだろう。宇佐美りんの『かか』や川上未映子『乳と卵』などはまんまそれで、近年の女性作家に多い傾向と言える。こういった作品が評価されがちな傾向は個人的に如何なものかとは思うが、しかしやはりこのように語られることで、ふっと主人公の自意識に入り込んでいくことができるし、何より慣れるとリズムがいい。
また、純文学を描くときのハードルにある「語っていないリアルさ」という自意識の問題を、方言は簡単に消してくれる。
現実では「である」と地の文で語らないし、一人語りもしないし、かといって三人称で語らせればちょっと純文学っぽくないのだ。
そういう点で、この作品は不純物が少なく、入り込んで読めた。

表面的で手法的な話はこれくらいでいいだろう。だが、内容の方に取り立てて語るべきところはない。いかにも選考委員が好きそうな「純文学」だ。
というか、面白い筋立てがあって、オチがあるような作品は直木賞に任せておけばいいのだ。
この作品の中に、そういった純文学を取り巻く全てと、そして作品内および現実で生きている人間すべてを表す台詞があったので、引用しておく。


「一ノ蔵もさ、たぶん誰かにそういうことされてたか、されてるよな」とよしいちは続ける。「知らん。 言っとったん?」何となくやけど、 とよしいちは言う。「あいつめっちゃ下ネタ言うやん。そういう奴おんねんって母さんに言ったら、母さん仕事カウンセラーやからさ、誰かにそういうこと教えられて、周りの環境がそうさせてるんかもしれんねって。俺もそれなら納得いくなと思って」 そうやったら大変やなと俺は返事して、でもよしいちのシャッタ、ン、ハやって、そんなに直線で説明できる何かがあるもんやろか。(『ここはとても速い川』講談社文庫、p.62)


主人公と常に一緒に行動している少年「ひじり」は、産休に入る直前の施設の先生にセクハラを受けている。その先生はなぜそんなことをするのか。母のいない「ひじり」と主人公はそれについて何を思うのか。下ネタを言う同級生は周りの環境がそうさせるのか。急に来なくなった実習の光輝先生はなぜ辞めていったのか。もう2度と会うことのない実習生のゆい先生は今後どうするのか。いなくなった母が戻ってくることはあるのか。ひじりはお父さんのところに帰って幸せなのか。
ここはとても速い川。
何にだって説明をつけて、「それっぽい理屈」をひねり出して、何かをわかった気になることはできる。
だが、そんな「言葉だけ」で直線で説明できるもので世の中が回っているのなら、小説はいらないのだ。

この一節だけで、私はこの作品を読んで良かったと心から思った。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?