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ピカソとその時代 ベルリン国立ベルクグリューン美術館展[3] ピカソ,作品の変遷

 「ピカソとその時代 ベルリン国立ベルクグリューン美術館展」@国立西洋美術館(東京・上野公園、~2023年1月22日)

 今回は2室から3室、青の時代とバラ色の時代を経てキュビズムに向かっていったピカソが、2度の大戦に翻弄されながら作風を変化させていった変遷を駆け足で。

 大戦前までの話を少し先どりして記すと、1901年末~の「青の時代」、1905年~の「バラ色の時代」、1906年前半~の「古典主義の時代」を経て、1908年夏からはセザンヌに応答した作品を描き、ピカソは徐々にキュビズムに向かう(※以下、本稿文中の時代背景や、作品解説等の出典は、すべて展覧会図録から)。

■パブロ・ピカソ《ジャウメ・サルバテスの肖像》

 ピカソの古い友人であり、1935年からは秘書でもあったジャウメ・サルバテスの肖像画。

パブロ・ピカソ《ジャウメ・サルバテスの肖像》

 本作はピカソが深刻なうつ病に陥ったといわれている青の時代に描かれている。のちにサルバテスは、それらがモデルからではなく画家自身から発せられたものが作品に反映されたものであると述べている。


■パブロ・ピカソ《座るアルルカン》

 1904年にピカソは”洗濯船”に移り住んでアーティストたちと交流を持ち、1905年には青色からバラ色へとその画風を変化させる。

パブロ・ピカソ《座るアルルカン》

 サーカスの団員や辻芸人たちを詩作で表現していたギヨーム・アポリエールと出会ったことで、道化役であるアルルカンのほか、軽業師や大道芸人の姿を多く描いたとされる。


■パブロ・ピカソ《女の頭部》

パブロ・ピカソ《女の頭部》

 《アヴィニョンの娘たち》のための習作として1906-07年に描かれた作品。上半身が筋骨たくましく表現されている点については、紀元前アルカイック期のイベリア彫刻からの影響も指摘されている。


■パブロ・ピカソ《洋梨とリンゴのある果樹鉢》

パブロ・ピカソ《洋梨とリンゴのある果樹鉢》

 ピカソが本作のような、セザンヌに応答する作品を描きはじめるのは1908年。複数の視点から見た対象の描写、奥行き感の少ない背景の表現など、キュビズムへの移行が感じられる。1908-09の静物画からは、素朴派アンリ・ルソーの影響も指摘されている。

 個人的な感想としては、セザンヌの描いた、テーブルから落ちそうな不思議な位置に留まっているリンゴ、を初めて観たときのような困惑(名画と言われている作品なのに、このぐらぐらした不安定さはなに?のような)、はなく、「あえて(この表現をしている)」ということが示されている印象をうけた。


■パブロ・ピカソ《女の頭部(フェルナンド)》

パブロ・ピカソ《女の頭部(フェルナンド)》

 複数の視点の融合によって首が太く描かれた女性像、という形態表現で一つの頭部全体を捉えるという狙いから本作の構想が生まれた。モデルとなったのは、本作制作時の恋人、フェルディナンド・オリヴィエ。


■パブロ・ピカソ《窓辺の静物、サン=ラファエル》

パブロ・ピカソ《窓辺の静物、サン=ラファエル》

 1919年の夏、ピカソは前年に結婚したオルガと、地中海に面したサン=ラファエルでバカンスを過ごした。

 窓辺の風景画に見えるが、これは現実の窓辺の風景と、色を塗った厚紙を組み立てて作った果物籠とギターの小さなコンストラクションの2つに基づいていて、もともと関連のないものを組み合わせている。それこそが、本作の雰囲気をエレガントで華やかなものにしているとされる。


■パブロ・ピカソ《座って足を拭く裸婦》

パブロ・ピカソ《座って足を拭く裸婦》

 1915年からはじまるピカソの新古典主義時代に制作された作品。このポーズは、古代彫刻の《とげを抜く少年(スピナリオ)》、ルノワールの《風景の中に座る裸婦(エウリディケ)》を参照しているという指摘がある。裸婦の身体の下に敷かれた布は「トラベリー」と呼ばれ、古代彫刻に由来する、水浴図の常套手段。

 ピカソは当時、自分の作品と古典古代の美術との関係について没頭していたが、手足がデフォルメされて描かれていることから、その関心は物語性よりも足を組むという身体表現のほうに向いていたのではないかとされる。

■パブロ・ピカソ《踊るシレノス》

パブロ・ピカソ《踊るシレノス》

 古代ローマの海神ネプトゥヌス(ポセイドン)とともに海から現れたシレノス。シレノスは予言術や音楽に精通しているが酒を飲むと踊り狂い、女神を追い回す。ピカソは本作で、時代を超越したエロティックな快楽と人生の謳歌を表現した。


■パブロ・ピカソ《ミノタウロマキア》

パブロ・ピカソ《ミノタウロマキア》

 海岸で右手を差し出すミノタウロス、花束を手にしてろうそくを掲げて待ち受ける少女。腸を引きずっている馬、上半身をはだけた女剣士。背後からは2人の女性が、はしごからは男性がようすを見守る。

 当時、ピカソは愛人のマリー=テレーズの妊娠によって家庭生活の崩壊に直面しており、本作は画家の強迫観念、心理的葛藤の発露とみなされてきた。ただ、闘牛やミノタウロスの象徴性、神話や宗教的イメージが重層的に組み合わされた世界観は、普遍性と多様性を獲得している。


■パブロ・ピカソ《サーカスの馬》

パブロ・ピカソ《サーカスの馬》

 ピカソはもともと非政治的な画家だったが、1936年7月に勃発したスペイン内乱を機に社会参加(アンガージュマン)し、翌年の古都ゲルニカ破壊を受けて《ゲルニカ》を発表した。その4カ月後、ピカソは《ゲルニカ》のポストクリプトともいえる作品を2作発表、その一作が本作だ。

 馬のモチーフはピカソ作品の中では弱弱しい犠牲者として描かれることが多いが、もう一方のポストクリプトのほうでは、荒涼とした風景の中央で馬が笑みを浮かべており、あわせると多様な解釈が可能、とされる。


■知識を血肉とした、その先に

 展覧会で、ほぼ年代順に並び、理解しやすいように配慮されている作品たちと出会うのはもちろん喜びだ。ただ、まとめてきて改めて思うのは、うっかり受け身で観ていたらやはり、学生時代に嫌というほど身に付いてしまった「一つの正解を求めて、無意識に道筋を作ってしまう」方向の鑑賞、に引っ張られてしまいがちになる、ということだ。

 では、どうすれば? 例えば、《窓辺の静物、サン=ラファエル》の少し非現実的な、不思議な感じに惹かれて、ずいぶん眺めた挙句に、「ああ、もしかしてこの不思議な現実感のなさは、別々の場所、次元のものたちが、一つの画面にコラージュされているようなもの、と考えると、説明できるのかも?」という一つの解釈が、「先に」自分のなかにできれば、それをベースに、さまざまな解釈との比較を愉しむこともできるだろう。

 ただ、知識のない中での「自分なりの観方」といってもたかが知れている。過去から積み上げられてきた、こういう枠組みが存在する、というバリエーションは知っておいたほうが、解釈の幅も広がってくる。それが絶対的な正しさでそれに屈するべきという意味でなく、「道具を得る」ためのインプットは必須だ。

 そして期待してしまうのは、図録で語られる各種研究の成果含めた情報を自分の中に取り込んで血肉としていけば、先人たちの遺作の系譜を継承しながら脈々と進んでいくアートの世界で、あるときある作品から、そのルーツを辿るように過去からの歴史が連なって見えることが、自分にも起きるのではないかという期待だ。そういう気づき(と、推理していく作業)は、きっと愉しい。

 延々とまとめながら、これは、書いて記憶に格納する作業で、その目的は、自分の脳内を愉快にしていくこと、というごく私的なことにあるのだなとも感じている。

 


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