[群]としての作品 -中園孔二「ソウルメイト」@丸亀市 猪熊弦一郎現代美術館
成田から再び、高松へ。
いつものように、スケジュールが空いたところに滑り込ませた短い旅。天気は全国的に変わりやすく、崩れつつあったのだけど、「島には1日行かれればいい、悪天候ならば美術館巡りでもしよう」と調べていて…見つけてしまった。
どうしても行かなければという気になり、天候は回復したのだけど、フェリー乗り場の方には向かわず、高松駅から丸亀まで。
ちなみに、猪熊弦一郎作品の常設展も、前に訪れた時(下の記事)とは異なる時代に描かれた、異なる趣の作品を愉しめたので、そちらは次回紹介したい。
第一印象=「密度の濃い」
美術館1Fはエントランスとショップ、2Fが常設展、3Fが企画展となっている。今回は、1Fエントランスの壁にも、中園作品が展示されていた。
3F会場入口。
会場内の第一印象は「密度が濃い」だ。それは、作品数の多さでもあるし、鑑賞する人の多さでもある。
写真にはなるべく人を入れないように気をつけていたが、平日の昼どきに、なぜここまで人が多いのだろう、というくらいの賑わいだった。
タイトルなし、テーマ別に作品群が展示
下の「ご挨拶」にもあるように、これだけの作品を観るという機会の共有によって、作家の観ていた「1つのもの」に近づけるかもしれない。
一作品ごとのタイトルはなく、「描き続けること」「ひとびと」といったテーマで括って展示されている。そして作品たちには「群れ」で展示される必然性があるのだろう、と思えてくる。
どの作品にも惹かれるのだが、特に「いいなあ」となったのは、作品NO33の、こちらだ。ギャラリーの所蔵作品のようだった。
こちらの作品も、何度もじっくり観た。
2014年撮影のインタビュー映像
生前の作家が自作について語る、インタビュー映像も公開されていた。
「現時点で、好きな色は緑。どっちつかずだから」「絵に、何が描かれているかは重要ではない」「絵を描くとは『外円』をつくること。外円を作ってあらわす。たくさん作ることに意味がある」など、など。
絵だけにこだわるつもりはなく、彫刻などほかの表現方法も行っている、という発言もあった。
あくまでひとつの観かたとして、タイトルのない作品たち、群れを成すように展示されているさま、などの理由に結びつく言葉が、端々から受け取れたような気がした。
遺された言葉たち
作家は、たくさんの言葉を遺している。
それぞれ、「たしかに」と思える言葉だ。
そして、「自分が何かを作ったり、外にあるものを見たりするということは、世界にちらばっていった自分の一部を回収する、ことなんだと思う」は、わたしにとって、もっとも身体感覚に近い言葉だ。
中園孔二の世界に身を置いてみる
会場を何周もして、ときに休みながら、作品たちの写真を撮った。ランダムに並べてみる。
もし、アーティスト・中園孔二についてより知りたくなったら、下のリンクに関連記事がある。作家がいかに才能にあふれ、将来を嘱望されていたかも伝わってきた。そして本展キュレーターの想いも。
受け継がれていくものだけが残っていく。そんなこともふと考えた。
そして、引き寄せられるように本展を訪ね、期待以上のものを受け取った、自分のことも。