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繁田直美 展 -[不在のしるしとしての影]-絵を買う,再び

 4月某日、都内。

 日暮里駅を出て、

 谷中霊園を通り抜け、

 古民家カフェを眺めながら、

 その画廊へ。



繁田直美展

 足を運んだのは全部で3回だ。まず、アートを愛する仲間たちと、2度目と3度目は、ひとりで。

 ウェブサイトで作品を観たとき、作風に惹かれ、ぜひ鑑賞したいと思った。油彩、アクリルと画材はさまざまながら、その抽象画にはふしぎな奥行きがある。とても惹かれるのだが、たとえば画面越しであっても、作品を観ていると、何か(自分を)覗き込んでいるような気分に駆られる。

 自分のこれまでの経験から、だからもしかしたらこの作品たちは、外で鑑賞すべきで、自室には置くことのできないほうに分類されるのではと思っていた。

 今回の展示はすべて新作だ。鑑賞した第一印象は「あれ?」だ。

 作風が変わっていた。この展覧会を紹介いただいた、繁田作品のコレクターである方も「初めて観る」と。

 繁田さん自身が、解説をしてくださった。絵を描き始めた頃の作品のテイストに、作風が戻ってきているという。

 画材・グラファイトから生まれる、さまざまな表情。展示作品の数だけ、異なるグレーがある。その表情の豊かさに魅せられた。

 皆で伺った際は、作品がどう観えるか、そこから何を感じたか、といったことを言葉にしてシェアしあう、「対話鑑賞」も体験した。

 言語化が上手な人がいて、彼ならではの数知れない言葉があふれ出していった。作品から呼び起される自分の奥底の感情の数々。けれどわたしはどうもうまく言葉にならず、耳を傾けながら、黙ったままでいた。

 「また来ます」と伝えて、その日は去って、数日後。

「不在のしるしとしての影」

 2回目は、開廊時間にあわせて出かけた。明るい春の日差しが射し込む中、ひとりで作品たちをゆっくりと鑑賞した。

 繁田さんが出てきてくださり、解説をいただきながら、いつしかアート談義へと進んだ。

 静けさのなかで抽象画たちを観ているなかで、直島のことが思い出されてくる。

 そう、静けさと、光が呼び水だったと思う。話題は直島と、そのアートへと盛り上がっていった。

 特に、李禹煥(LeeUfan)作品。

 繁田さんは混みあう地中美術館を避けて入った李禹煥美術館で、ラッキーにも一人で作品と向き合う時間を得たという。

 直島の李禹煥美術館のたたずまい、広大な芝生の庭園「柱の広場」の、海を前に配置された「無限門」。聳え立つ安藤忠雄建築の無機質なコンクリート壁に展示された、ただ一カ所の点、「関係項-合図」。そして館内の展示作と瞑想の部屋。

 ひとりきり話したあとで、繁田さんが「あっ、そういえば」と。

 「展示していない作品があるのです。李さんの作品がお好きなら、ご覧になりませんか?」

 個展の際、展示スペースにどう作品を展示するか、その流れ、ストーリーは、素人考えでも難しいことがわかる。たしかに、目録にはあるが、展示されていない作品が2点あって、ちょっと気になっていた。

 そのうちの一作品が、本作。タイトルは「不在のしるしとしての影」。グラファイトが生み出す、影そして光。

 写真に撮れば作品のいわゆるアウラは消えてしまう。だからこの写真はオリジナルの劣化版でしかないのだけど、作品のなかに永遠が、それも、光り輝くようなものではなくしかしネガティブでもない、ただ在る永遠が映りこみ、時間という影を内包しているような、そんな第一印象だった。

 壁にかけていただくと、このような感じだ。

 実は、すでに鑑賞した展示作のなかで、気になっていた小作品を購入するつもりでいた。

 しかしこの作品を観たとき、「この絵だ」、と。

作品とともに帰路に就く

 さらに数日後、3度目の訪問。個展の最終日の、クローズ時間も間近。

 小さな作品だということに加えて、絵を携えてゆっくり帰る時間が好きだということがある。宅配便でなく、引き取りに伺いたいと言って、快諾いただいていた。

 作家からじかに手渡しいただいて、「不在のしるしとしての影」を手に、画廊を後にした。青空と、霊園に咲く満開の花たちに見送られながら。


 帰宅後に、迷わず、思っていた場所に。

 うん、やはり。

 まるで、ずっと前からこの壁に在ったような。



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