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新井碧[持続する線]@銀座 蔦屋書店(@GSIX) -身体の記憶,追体験

 新井碧 個展「持続する線」~6月20日@GINZA SIX内の銀座 蔦屋書店。


「身体の記憶で描く」

 「眼でなく、手で描く。意識の記憶でなく、身体の記憶で描く。」作家はステイトメントで語る。

アーティストステートメント
無意識的な「動作」と、その再解釈を繰り返す。
行為の構成要素でもあり、痕跡であるストロークに、身体の有限性と絵画の無限性が備わる。
ロラン・バルトのトゥオンブリ批評に、こんな一説がある。
「手だけが彼を導く。道具としての手の能力ではなく、手の欲望が導くのである。眼は理性であり、証明であり、経験主義であり、真実らしさであり、制御、調整、模倣に役立つすべてのものである。(中略)
トゥオンブリの作品が読み取らせるのは、私の身体は決して君の身体ではないだろうという宿命である」
眼でなく、手で描く。意識の記憶でなく、身体の記憶で描く。
それは、呼吸をすること、まばたきをすること、心臓が脈打つこと。
意識せずとも動作する私の身体は、明確な意思を持って生きているのではなく、生かされている。
自身の時間の痕跡を介して、あなた自身の有限性に触れる。
(参考文献:ロラン・バルト『美術論集』みすず書房、1986年)

【ARTIST NEWS】新井碧の個展「持続する線」を開催。“身体の有限性”を軸に新たに描き下ろされた作品を発表。内 アーティストステートメント より

 鑑賞する者は、まず全体を眺め、キャンバス上を走る線を追うことになる。いや、そうしないではいられない、と思う。

 細い線、勢いよく太く駆け抜ける線。ダイナミックに動き回る線。1本1本の、その「筆跡を追体験」することになる。

 この追体験をして(させられて)しまうところが胆だ。

 作家は意識の記憶でなく身体の記憶で描くと言っているのだから、それは作家の無意識の顕現だ。それを共になぞるというのは、作家の無意識に一緒にアクセスしているということなのではないか、と思う。

 知らず知らずのうちに作品世界にわたしたちも取り込まれ、あたかもメタバース的な世界で、アバターを通じて作品世界を探索するような状態に入っているのかもしれない。

不思議な巻き込み力に魅せられる

 わたしが強く感じたのは、つまり、これら作品の巻き込み力、のようなものだ。

 ただ美しく家に飾っておきたいと思わせるだけでなく、自分がその中に入るような経験をさせてくれる。作品がすべて売却済だったというのも、納得がいった。

 作品と観る者との間に関係が生まれてしまう。だからまた観たくなる。



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