マガジンのカバー画像

父の小父さん

32
運営しているクリエイター

#小説

父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと 28

父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと 28

尾崎さんの『大吉の籤』という作品に、父が独立して仕事を始めた頃のことが書かれています。大体の作品では山下昌久君、と本名で登場する父でしたが、この作品は例外的に仮名となっています。たまたま尾崎さんが、旅先の食堂で引いた籤(昔、よくありましたよね、灰皿兼用のおみくじ。十円入れると小さな巻物状のくじがコロン、と出てくる)が大吉で、お福分けした三人の男性が揃って幸先いいスタートを切ったものの、二人は残念な

もっとみる
父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと18

父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと18

父がぼそりと呟きました。「三月がやっと終わるな」。父にとって三月は辛い月です。家族を失った東京大空襲とともに、尾崎一雄さんが亡くなった月で、三年前には、父の妻、つまり私と妹の母の死が加わりました。

昭和五十八年(一九八三)三月三十一日に尾崎さんは逝去しました。八十三歳という享年は、大病をした尾崎さんとしては上出来だったでしょう。けれど、当日まで仕事をしていたそうですから、周囲の人たちにとっては急

もっとみる
父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと8

父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと8

実家には週一ペースで通っています。一人暮らしの父に少し楽をしてもらおうと、週末の夕飯は妹と私が用意していますが、たわいないおしゃべりをする時間でもあります。基本土曜日は妹、日曜日は私です。ある夜、デザートのリンゴを切っていたら、「チンパンジーの餌みたいだな」と言われ、ちょっとムッとしました。私のリンゴの切り方は、くるくる皮をむくのではなくて、サクサクと六等分してから、ひとかけずつするっと皮をむきま

もっとみる
父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと6

父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと6

日常のふとした出来事が記憶を呼び覚まします。少し気取っていうならば、プルーストの『失われた時を求めて』の紅茶に浸したマドレーヌ、のようなものでしょうか(文庫本の第一巻で挫折しましたが)。父の昔話も、ちょっとしたきっかけから始まります。おなじみの話もありますし、えっ、そんなの初めて聞く、という内容もあります。

何年か前、テレビで〝欽ちゃん&香取慎吾の全日本仮装大賞〟を父と一緒に観ていたときのこと。

もっとみる
父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと5

父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと5

二〇一六年三月に母が亡くなってからしばらく、父の精神も体も、目を覆いたくなるほどの衰弱を見せ、このまま母を追いかけるようにして逝ったらどうしようかと途方に暮れました。

何か元気づけることはできないか、と思案し、私にできそうなことといえば、こうした物語を書くことくらいでした。でも、すぐには手をつけることができなくて、そんな時にふと思い浮かんだのが、写真家である田沼武能さんの『時代を刻んだ貌』という

もっとみる
父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと4

父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと4

少しだけ私の話を。平成十八年(二〇〇六年)に『きものの花咲くころ』という本を上梓しました(一昨年に『きもの宝典』として再版)。十年在籍した主婦の友社の、看板雑誌『主婦の友』から、きもの関連の記事を選り抜いて再編集し、解説をつけたもので、大正六年(一九一六年)に創刊された『主婦の友』九十年分に目を通してみると、表紙や口絵、テーマ、執筆陣、記者の語り口などから、リアルに時代の匂いを感じることができ、濃

もっとみる
父の小父さん  作家・尾崎一雄と父のこと3

父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと3

父は、尾崎さんが亡くなったのちも、未亡人となった松枝さんと晩年までお付き合いがありました。老いた松枝さんは、生まれ故郷の金沢に「まアちゃん、一緒に行こうね」と誘ってくれたこともあったそうです。きっと、子どもの頃からの親しみゆえ、気安く誘うことができたのでしょう。

松枝さんは気さくで開けっぴろげな人柄で、私も大好きでした。尾崎さんは痩せぎすの体に着流し姿、子どもにとっては近寄りがたさがありました。

もっとみる
父の小父さん

作家・尾崎一雄と父のこと2

父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと2

上野の山は、今も昔も大好きな場所です。家族でよく出かけました。子どもにとっては動物園が何より楽しみだし、世の中の不思議が詰まった国立科学博物館も大好きでした。リズミカルに曲線を描く噴水、トンネルのような桜並木、三色団子の新鶯亭。最近では、上野といえば東京国立博物館が主な訪問先なのですが、いつも直帰しがたくて、ぶらぶら散歩してしまいます。今はなき、京成線の博物館動物園駅、あの薄暗い地下から地上に上が

もっとみる
父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと1

父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと1

タイトルにした「父の小父さん」から、ある人は、映画化された北杜夫原作の「ぼくのおじさん」を、ある人は、ジャック・タチの「ぼくの伯父さん」を、またある人は、歴史学者である網野善彦さんについて中沢新一さんが綴った「ぼくの叔父さん 網野善彦」を想起するかもしれません。

「父の小父さん」には、血の繋がっていない小父さんが、父を掛け値なしの大きな愛情で支え、実の親以上に見守り続けてくれた、その奇跡のような

もっとみる