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「#19 船から笑顔で手を振る知らない人達」




 港に隣接された公園は海沿いを長く続いている。等間隔に白いベンチが並び、読書をしている人や、愛を語り合う男女、高らかにトランペットを吹く老人など、皆が思い思いの時を過ごしている。ゆっくりとベンチの前を横切って歩く僕を、次々とランナー達が追い越していく。
 ボーという汽笛の音が聞こえ、立ち止まって振り向くと白い大きな船が見えた。甲板の上には沢山の乗客の姿があり、笑顔でこちらに手を振っている。僕はその光景を目の端で捉えながらも、気づいていない振りで船に背を向けまた歩き始める。

 だって、全然知らない人だから。

 アトラクションの一つと考えていたが、水面を走っている興奮と、船の底から伝わってくる鈍い振動にちゃんと恐怖も感じる。ゆったり進む船の速度に比べ、甲板を吹き抜ける風は彼女の髪を大きく揺らしている。
 園内を一周するその景色を眺めていると、船に気づいた来園者達がこちらに向かって笑顔で手を振っている。僕は遠くの方を眺め、視界に入っていないような振りでそれをやり過ごす。

 だって、全然知らない人だから。

 人はなぜ船から知らない人達に手を振るのだろうか?人はなぜ知らない人達が乗船している船に向かって手を振るのだろうか?

 古来日本では、空気を震わせることで神仏との交信を行ってきた。鈴を鳴らす、柏手を打つ、神主が玉串を振る、神輿を担いで大きく揺さぶる、これは全て天界の神に空気を震わせることによって合図を送っているのであり、空気を震わせるという所作が、神の加護による安寧を祈ったり、厄を払うと考えられていた。
 それが次第に人に対しても行われるようになり、無事を神に祈るという意味を込めて人は別れる時に手を振るようになったと言われている。

 そう考えると何だか僕だって手を触れるような気がする。知ってるとか知らないとかではなく、出航する人達の無事を祈る為に、港に残った人達の幸せを願う為に、恥ずかしがらずに手を振ればいいだけなのだと思えてくる。その国を訪れたことがなくても、その人達が扱う言語を理解は出来なくても、紛争が無くなればいいと祈っているし、いつだって世界が平和であればいいと願っている。
 だったら全部同じじゃないか。浅草で人力車に乗る人にだって、恵比寿から中目黒まで電動スクーターに乗って移動する若者にだって、照れずに笑顔で手を振ってもおかしくなんかないのだ。
 何をする時も、何を言葉にする時も、僕の後ろにいる何者かに怯えていた。振り返るとそこには僕が立っていて、僕が何者かによって制限されていたのではなく、僕自身が僕の傀儡を操り動きを止めていた。もうそんな生き方からは脱却する時なのだ。

 いや面倒臭い奴やな。そんなんちゃうねん、皆んなただテンション上がってるだけやねん。
 船に乗ってるってことは、大抵が旅行に来てるか遊びに来てる人やろ。楽しいねん、船乗ってテンション上がって手を振ってんねん。
 遊覧船が近くに見えるってことは、大抵が旅行に来てるか遊びに来てる人やろ。楽しいねん、普段あんま見ることないデッカい船見てテンション上がって手を振ってるだけやねん。

 理由とかいらんねん、変な想いのせて手を振られたら逆に怖いから。船にトラブルあった時、そう言えば港からこっちに一人だけ異様な雰囲気で手を振ってる人がおった、もしかしたらあれは死神的な存在やったんちゃうか…っみたいな新しい都市伝説が誕生する可能性あるぞ。あと、人力車と電動スクーターに手を振るのは変な人やからやったあかんで。

 何者かであった僕でも、傀儡であった僕でもない、他の誰かの声が聞こえる…。

 それもいらんねん、ちょくちょく芝居がかった台詞で雰囲気出そうとすな。

  貴様は一体何者だっ!

 うるさい黙れ、一番のお前や!




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