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「萱島祭り」


 お気に入りのTシャツに着替え家の外に出ると、むっとした熱気が体に纏わりついてきた。胸の高鳴りをごまかそうと、顔を差す西日にわざとらしく顔をしかめた。

 短髪に整髪料をなすり付けた髪型が崩れぬように、Tシャツの脇や背中の部分が汗で濡れてしまわぬように、待ち合わせした橋の上まで、ゆっくりとした速度で自転車を漕ぐ。
 昔通っていた幼稚園を通り過ぎ、その先にある神田神社の前を右に曲がると僕らの通う中学の校舎が現れる。夏休みに入って人気のない校舎は静かに佇み、グラウンドでは昼間の激しい部活動の残影が薄紫色に染まっていた。ゆっくりと自転車のペダルを踏み込む度に、夏夜の密度が濃くなってゆく。

 両脇に田園の広がる道を抜けると、君の住む団地の灯りが遠くに見えた。抑えていた胸の高鳴りはぐっと掴まれたように一度止まり、さっきよりも強く響き始める。まるでもう君に会った時のようだと思うけれど、いつも君に会ったら僕の鼓動は爆ぜてしまって、熱が染みるように広がっていく。
 自転車を押して最後の大きな坂を登り、川沿いの駐輪場に自転車を止めた。わざとらしくないようにパンツのポケットに両手を入れ、自然な雰囲気で橋の欄干にもたれかかって君を待つ。団地の窓から僕の姿を確認した君は、こちらに向かって手を振りながら何も繕わない笑顔で駆けてきた。

 浴衣を着るか迷っていた君は結局いつも通りの姿で現れて、自分はその程度の存在かなんてちょっぴり思ったりもしたけど、やっぱりどこかほっとしていた。僕たちはとても微妙な関係だったから、いつもその答えに近づく一歩を躊躇したし、君の浴衣姿を見てしまったら、僕も何か一つ決断をしなければいけない気がしていた。
 川沿いの道を駅に向かって二人で歩く。緩やかにカーブする一本道の先に萱島駅はあり、駅の高架下に祀られている萱島神社ひっそりとしているけど、樹齢700年と推定される御神木の大楠は駅のホームと屋根を貫き荘厳さを誇っていた。毎年夏に行われる萱島祭りでは、駅の下を流れる寝屋川沿いに多くの屋台が並び地元の住人で溢れかえる。地元でいくつか開催される夏祭りの一つに過ぎないけれど、中学生の僕達にとってはこの祭りだけが意中の相手を誘える特別なものだった。もちろん誘ったからといってそれは告白を意味するようなものではなく、たとえば海外ドラマや映画の中で見るプロムのように、その夜だけの淡い煌めきに包まれるのだ。

 駅に近づくにつれ祭りの空気が風に漂って運ばれてくる。それは鈴の音や太鼓の振動だったり、男女の笑い声やひび割れた声のアナウンスだったり、屋台の甘い香りや、油の匂いや、鉄板で焼かれたソースの香ばしさだったりする。そんな喧騒の中でも、深く藍色に染まった寝屋川は僕の右隣をゆっくりと流れ、決して清らかとは言えないその川と君に挟まれ、僕は三人で歩いているような心地良さを感じていた。
 川沿いの道をそのまま進んで薄暗くなった駅の高架下をくぐり抜けると、辺りは唐突にオレンジ色に染められた。屋台の電球や提灯のあかりが夜に滲んだような世界で、浴衣姿の若い男女や、素肌に法被を纏ったおじさんや、小さな狐や仮面ライダーやウルトラマンがそこら中にいて、この場所を目指していたはずの僕らは迷い込んだように少し戸惑ってしまう。

 屋台がひしめき合って並んだ道は狭く、どれだけ工夫しても人並みに逆らうようにしか進めなくて、君は少し後ろを歩きながら僕のTシャツの袖を強く握っていた。拙い僕にはその手を握ることを想像するだけが精一杯で、その僅かな繋がりでさえ幸福だと思った。
 君はようやく手に入れたヨーヨーをくるくると回してその模様を確かめながら、もう片方の手には包紙をあけ開けぬままのりんご飴を握りしめていた。屋台には僕らの間を埋める欠片が並べられていて、君はそれを大事に集めているみたいだった。

  帰りに通る駅の高架下は日常と繋がるゲートのようで、薄暗い中をくぐり抜けると見慣れたいつものコンビニが僕らを出迎えた。あんなにも充満していた祭りの空気はボリュームを絞られていくように小さく消えかかり、川沿いの帰り道には、かき氷のプラカップや、ソースのついた割り箸や、割れたヨーヨーや、そんな夏祭りの残骸が残されていた。
 君は歩道の縁石を飛び移るようにして進み、僕はその後ろ姿を眺めて歩きながら、この夜はもうとっくにエンディングを迎えているのだと気づいた。夏休みの間に君と何度会ってもこんな夜はもう来ないだろうし、夏休みが終われば僕らはすっかり日常に戻っていく。
 だからせめてこの瞬間をずっと覚えておきたいと思った。熱気と歓喜の只中にいた君との時間ではなく、君の後ろ姿を眺める僕をそっと撫でていくこの夜風の優しさを、どうしようもなく押し寄せるこの哀しみを、僕はずっと忘れたくないと思った。
 この一瞬を、僕は永遠に抱えて生きていくような気がした。

 君は別れ際に両手の欠片たちを僕に見せながら、会った時と同じように屈託なく笑った。

 僕の隣で相変わらず寝屋川は静かに流れていた。たっぷりと夜を吸収した黒い水面を街灯のあかりで艶々と光らせながら、僕の焦燥をゆっくりと押し流すように流れていた。僕は欄干に寄りかかって君のくれた笑顔を川に浮かべてみたけれど、それは水面の泡のように弾けてすぐに消えてしまった。

 
 

 

 


 
 


 

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