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不安という名のトンネルから抜けた日【小説】

コロナ禍で先行きが不安な日々を過ごしながら、ふと思い出した。こういう事、前にもあった。今ある不安をそっと抱きしめよう。私もあなたも大丈夫。40歳手前の就活と、パリ一人旅。トンネルから抜け出した私のストーリー。明けない夜なんて無い。


スマホがメール着信を告げる。嫌な予感がする。

ああ、やっぱり。

また、キャンセルになった。コロナの影響で、フリーの研修トレーナーである私は大打撃を受けている。音楽、演劇、スポーツクラブ。フリーランスで今回ダメージを受けている業界は色々あるが、教育業界の我々の事も忘れて欲しくはない。

幸い、私が業務委託を受けているビジネスパートナーの会社がきちんとしていて、可能な範囲でキャンセル料を支払ってくれたり、オンライン対応に切り替えてくれたり。彼らも大変なはずなのに、状況を説明してくれつつ一生懸命やってくれるので、私もなんとか腐らずに済んでいる。

が、会社員の夫の情報によると、「なんだかんだで、通常に戻るまで最低半年はかかる」という。それを聞いたら、これまでなんとか踏ん張っていた気持ちの糸がぷつんと切れて、思わず涙が流れてきた。夫は親切で言ったつもりらしかったが、私は泣きながら抗議する。

「なんでよー。それじゃ、仕事の仕方忘れちゃうよ。」

夫は困ったような顔をして私を見た。長年かけて培った仕事のスキルは簡単には衰えない(はず)。仕事の仕方を忘れるのが怖いのでは無い。私の仕事が世の中から忘れ去られてしまう事、私の存在が世の中から必要とされなくなる事が怖いのだ。

マスクと、最近お気に入りのJBLのヘッドフォンを身につけて、外へ飛び出す。生暖かい春の空気を感じながら、フラフラ歩いていたら少しずつ気持ちが落ち着いてきた。


あー、こんな毎日いつまで続くんだろう。

こういう時、つい周りの同業者の事が気になってしまう。こんな状況は私だけで、皆もっと上手くやっていて、実はまあまあ仕事があるんじゃないだろうか。でも、きっとあの人よりは私の方が状況マシだよな。

などと、実にさもしい考えが頭をよぎり、さっきとは違う理由で嫌な気持ちになる。

ヘッドフォンのボリュームをあげ、Spotifyから流れるJポップを軽く口ずさんでみる。


今歩いている道は、10年以上歩いているお気に入りの散歩コースだ。どこまで行くかはその日の気分次第なのだが、今日は最長コースを行ってみる事にした。いつもは30分のコースなのだが、概ね1時間かかる最長コースは、ここしばらく歩いていなかった。新鮮な思いつきに、少しだけ明るい気持ちになった。

繁華街とは反対の住宅街の方角へ歩いていくと、外国人の有名な建築家が設計したという古い学校跡がある。ここは知的な空気感に加え、手入れされた美しい庭があり、私のお気に入りスポットだ。

線路沿いの道に出て、ここからは自宅の最寄駅の隣駅まで10分位。この道には、ステンドグラスを扱う店や靴修理店、誰が来るんだろうと思うほど古くて汚いスナック等があり、歩いているだけで、なんとなく楽しい気持ちになる。駅に着くまでが普段のコース。今日は更に、都電の駅の方角に向かうつもりだ。久々の最長コースは、私をどう迎えてくれるだろうか。

歩いていたら、少しずつ思い出した。この最長コースを毎日歩いた日々の事を。それは10年近くも前、会社員を辞めた頃だ。


***


8年勤めた会社で、じわじわと居心地の悪くなる状況に追い込まれた。そろそろ環境を変えたかった事もあって退職を決意した。私は、いわゆる会社人間というか、仕事以外の事を一切してこなかった。仕事の後に友人と会うとか、週末趣味を楽しむ、とか、そういう事ができないタイプで、1週間のエネルギーを100としたら、95は仕事に注ぎ込む、それが私だった。

だから、退職後半年くらいはゆっくりするつもりだった。実際、一人旅をしたり、ゆっくり読書したり、ヘアスタイルを変えたり。そんな生活は私の風貌も変えたようだった。不摂生で一時細くなった髪の毛も復活し、顔色も良くなり、何より表情が変わったらしい。かつての同僚から「憑き物が取れた」と言われる程だった。つまりの所、久々の自由を楽しんでいた。


そんな生活をして数ヶ月経った頃、東日本大震災が起きた。TVで何度も流れる津波の映像、増え続ける死者の数、放射能に関する噂。もちろん直接的に被害に遭われた方の大変さに及ぶはずもないが、家で無事に過ごす人々にとっても、あの時期は過酷だったと思う。

さらに、私が辛かったのは、仕事をしていなかった事で社会から取り残されているような気がした事だ。夫は会社へ行って忙しそうだし、かつての会社の同僚達も何やら団結を強め、必死に業績の回復に向けて動き回っている。

就活しようにも求人も少なく、旅行しようにも世間は自粛モード。私はひたすら家で孤独と戦っていた。たった一人で、長いトンネルの中をとぼとぼ歩いているような気持ちだった。


そんな時、よく散歩をした。

外に出ないと身体がなまるし、何より歩いていると余計な事を考えずに済んだ。

勉強もした。時間がある分私は実は有利なんだ、と思いたくて、Excel、英語、会計、様々なものに手を出した。どれも中途半端だったが、やっていると不思議と気持ちが落ち着いた。

自粛モードが和らいでくると、小さな国内旅行を再開した。それまで不義理をしていた義両親とも頻繁に会ったり、長らく会っていなかった学生時代の友人に連絡を取ったりする私は、傍目から見ると「充電期間」を謳歌している人のようだった。


実際は焦っていた。

当然ながら貯金はどんどん目減りしていた。8月一杯はこうして過ごす事を自分に許し、9月からは就職活動をしようと心に決めた。

専業主婦になるという発想など1ミリも無かった。子供を作らなかった私にとって、仕事をする事は生きる事と同じだった。今、たまたま仕事をしていないだけで、仕事をしている自分こそが「ほんとうの自分」なのだと信じていた。

そろそろトンネルの先の小さな灯が見えるはずだった。が、歩けど歩けど、トンネルの先には暗闇しかなかった。


ある就職エージェントに登録したが、思うような求人が無い。長年の営業経験を生かして営業企画のような仕事をしたいと思っていたが、私の職務経験では紹介できないという。業界は問わなかったが、30代後半の私には、もう新しい業界へのチャレンジという道は無いらしい。前職と同種で、前職よりも小規模の会社ばかり紹介された。まあ仕方ないかという思いで数社に応募したら、全て書類選考で落とされた。

40手前の転職がきつい事は聞いてはいたが、自分のそれまでの仕事には、それなりの自信があった。それなのに、面接すら受けられない。TVドラマで、突然会社を解雇された50代の主人公が再就職しようと奮闘する様子を見て、私よりも過酷な状況の中で自分の道を切り開く主人公に励まされた。


そんな日々の中、再就職する前にどうしても行きたかった場所があった。

それはパリだ。

以前、友人とヨーロッパ周遊ツアーに参加して、2日だけ滞在したパリ。あそこにもう一度行きたかった。会社員時代、唯一と言って良い趣味が読書で、小説や軽いエッセイのようなものが好きだった。なかでも、パリ在住の日本人女性が書いたエッセイがお気に入りで、仕事の休憩中や、寝る前のベッドの中で繰り返し読んだものだ。文中に出てくる場所をいつか訪れてみたいと思いながら。

ネットで航空機のチケットとホテルだけを予約し、10 日間の予定を組んだ。

就活の事は気になったが、これとそれは別とばかり、スマホを海外で使える設定にし、エージェントとの連絡だけは取れる体制を整えて、私は旅立った。


出発の日は2時間しか眠れなかった。無理もない。この年齢にして初の海外一人旅なのだ。パリへ向かうANAの機内は、学生風の友人同士、母娘らしき組み合わせ、外国人はカップルばかり。一人客は決まってビジネスマン風で、明らかにツーリストの一人客は私以外ほとんど見かけない。少し切なくもあり、なぜか誇らしくもあった。機内食のあの独特の匂いの中で、持参したパリのエッセイ本を取り出し、パリの空気に浸る。

交通の便と治安の良さを優先して選んだパリ中心地のホテルに到着したのは、18時を過ぎていた。まだ早い時間とはいえ外は暗く、スーツケースを引きずりながらホテルを探すのは想像以上に大変だった。憧れの石造りの街はとても冷たく見え、忙しく歩く現地の人々は誰一人、アジアからの一観光客の私なんか気に留めない。道を尋ねても、お世辞にも親切と言える対応はしてもらえなかった。

ホテルに着いた時はホッとし過ぎて涙が出そうだった。明日から一人でやっていけるのかな、なんで一人で来ちゃったのかと、念願のパリなのに、心細さで一杯だった。


少し元気になったのは、翌朝ホテルの1階で朝食を食べた時だった。安ホテルとはいえ、そこはパリ。焼きたてのパンはバターの香りがしたし、名前がわからないチーズが何種類もある。少ないがフルーツや野菜もあった。ほろ苦いコーヒーを飲みながらそれらをほおばり、まだ薄暗い窓の外を眺めると、昨夜は暗闇の中、ホテルを探すのに必死でほとんど気にとめなかった街並みが目に入ってきた。

そうだ、私、パリに来たんだ。

そう思ったら少し力が湧いた。外に出ると、10月の朝のパリは予想よりも寒く感じられた。早朝のシンとした透き通るような静寂は東京と同じだが、古い石造りの建物に囲まれたその街の佇まいは、厳かな空気を醸し出してる。

突然、目の前に一段と立派な建物が現れた。「オペラ・ガルニエ」、オペラ座だ。横に長い建物なのに、そびえ立つ、という表現が相応しい。もの凄い存在感だ。壁面には名前をよく知る作曲家の彫像が埋め込まれている。

ヨーロッパ人が京都へ来て、日本の古い建造物に感動するのがわかるような気がした。同じ古さでも、種類が全然違うのだ。日本の木造建築のどこか繊細さの伴う強さに対し、ここにあるのは「どうだ」と言わんばかりの、迫力と圧倒的強さ。突然、自分が小さな存在に思えた。


あぁ、そうか。私はちっぽけなんだ。


こんな所で暮らしたら、毎日劣等感に悩まされそうだと思った。しかし、目の前に広がる光景は、そんな私をあざ笑うようにとてつもなく美しい。ただ、美しい。これがヨーロッパなんだ。世界なんだ。

興奮気味に一通りスマホで写真を撮った後、ふと思い出して、そのままメールボックスを確認した。

就職活動は相変わらずパッとしなかったが、少しずつ前進はしていた。ある程度現実的な希望条件へと変更し、いくつかの会社の面接は受けていた。が、縁を感じるような出会いは無かった。エージェントのアドバイスに従い、職務経歴書に手を加え、管理職経験を強くアピールした。その新しい職務経歴書を元に、更にいくつかの会社に応募してもらっていた。今週あたり、ぼちぼちその反応がわかるはずだった。

メールボックスには、20件程のメールが届いていたが、広告やメルマガばかりだった。私は小さくため息をついた。


パリ滞在も数日も経つと、だいぶ自由に歩けるようになった。とにかく見る場所がたくさんあるし、地下鉄を使ってどこへでも行ける。ルーブル美術館も有名デパートもホテルから徒歩圏内だった。昼は外で食べて、夜はスーパーマーケットで買ってきた食料をホテルで食べる事にしていた。夜の一人歩きは不安だし、レストランに一人で入るのも抵抗があった。その代わり、旅行ガイドで見つけたミシュランの一つ星レストランでランチをした。日本人にはちょっと塩気が強い味付けだったが、グラスシャンパンを飲みながら私は満足だった。パリの空気に少しずつ慣れるとともに、気持ちが晴れやかになっていくのを感じていた。


余裕が出てくると表情が和らぐせいか、色んな人から話しかけられた。二人組みの韓国人に宗教に勧誘されたり(彼女達とのおしゃべりは久々の会話らしい会話で楽しかった)、ヴィトンの前では中国人観光客から自分の代わりにバックを買ってきてくれないかと頼まれたりした(当時、購入数の制限があったようだ)。何故か道を尋ねられる事もあった。

現地の人ともささやかな交流があった。フォションでシャンパンのミニボトルやらサーモンの惣菜やらキャラメルエクレアやらを買い込んでレジに並んでいたら、すぐ後ろにいた素敵なマダムが「良いチョイスね」と笑いかけてくれた。毎日朝食を食べるホテルの給仕の女性は、私のルームナンバーを覚えてくれた。必要最低限の言葉しか交わしていないが、笑顔で目をみてコミュニケーションをとると、ちょっとだけ心が通じるような気がした。

日本へ帰る2日前に、エージェントからメールが来た。

応募した会社全て、書類が通らなかったという連絡だった。まさか全滅とは思っていなかったのでショックで気が動転した。「まじか」と思わず声に出しながら、ルーブル美術館の古い彫刻展示コーナーにあるマリア像の周りをぐるぐる歩いた。時間が経つと、ちょっと落ち着いてきた。

ここはパリだ。

世の中は広いんだ。ちっぽけな日本の中の、一つのエージェントでうまくいかなかったからってそんなにへこむ必要無い。帰ったら別のエージェントへエントリーしてみよう。そして、あと2日間、パリを楽しみ尽くそう。こんな事で落ち込んで時間を無駄にする事ないじゃないか。そう思えた自分に、少しホッとした。

休憩コーナーに座って、次はどのコーナーへ行こうかと思案していたら、隣に座っていたフランス人と思われるおじいさんが英語で話しかけてきた。日本へ行った事があるそうだ。手元にある手帳に何やら日本の情報が小さな文字でたくさん書いてある。これはナンパかはたまた詐欺か、と一瞬警戒したが、どうやらただ話したいだけの人みたいだった(アジア人の観光客は格好の話し相手なのだろう)。「旅行か」「日本のどこから来たのか」等の質問に適当に答えていると、「日本では何をしているのか」と聞かれた。

はて、困った。なんと言おう。

とっさに嘘をついた。私は前職の話をしたのだった。「こういう業界でこういう仕事をしています」と。後で考えたら、「昨年仕事をやめて今休職中です。合間に旅行に来ているんです」と正直に言えば良かったのに。なぜ、私の事を誰も知らない海外の旅行先で、現地のお年寄りに見栄を張らなければいけないのか。自分の中にある死ぬほど屈折した感情に、あらためて気付かされた。


そうか、私はやっぱり苦しいんだ。


パリ最終日、この日は少し足を伸ばしてパリ郊外の小さな美術館を訪れた。見た所日本人は一人もいない。当然絵の解説もフランス語と英語のみだった。簡単な旅行会話程度には困らないのだが、読むとなると結構難しく、書いてある事の意味の半分しかわからない。

やっぱり英語くらいできなきゃ、世界で暮らしていけないよな。

10日ばかりの滞在で、すっかり世界が舞台になったような気持ちの私。短絡的にも思えるが、気持ちが大きくなった訳ではなく、世の中はとても広く(もちろん私の知っている世界はまだまだ少ないが)、従って、私も、私の周囲も小さいのだ、という事に気付いたのだ。私にはまだまだ磨かなければいけない事がある。スキルだけでなく、内面も。

だからこそ、もっと広く周りを、世界を見て、自分の将来を決めていかなければ。私の中にある、傷ついたプライドやつまらない見栄、そんなものはどうでも良い。


私は生きているんだ。この世界で。


40近くになって初めて海外一人旅をして、ほんの少しだけ違う世界を見て、私が気付いた事だった。


美術館の外に出て、公園で遊ぶ子供達を眺めながら、スマホのメールボックスを見ると、2ヶ月前にweb上で応募した某外資系大手食品会社が募集していた採用セミナーへの案内が来ていた。即戦力採用を狙い、カリスマ社長を囲んでの少人数セミナーだった。応募時に見た社長のメッセージに興味を持ち、熱心に自己PRを書いた記憶があったが、どうせ参加できないだろうと思って存在自体を忘れていた。

これ、エージェントを通した書類審査に通るよりももっと価値があるんじゃない?今回の就活以来、初めてと言って良い快挙に、思わず小さくガッツポーズした。

大丈夫。私は大丈夫。

トンネルの先に、ぼんやりとした灯りのようなものが見えた気がした。会社を辞めてからもうすぐ1年になろうとしていた。


***


久々の最長コースは、なかなか歩きごたえがあった。ここ数日の東京は4月にしてはかなり暖かく、少し汗ばんできた。ゴールに近い神社は変わりなく私を待っていた。違っている事と言えば、神社の境内に駄菓子屋の屋台があった事だ。夫が昔から好きなラムネがあったので買って帰ろうと思い、いくつかカゴにいれ、お店のおばあさんに渡したら、現金を持っていない事に気が付いた。最近なんでもスマホで決済できるし、急いで家を出たので財布を持っていなかったのだ。

おばあさんに謝りながら、マスクの奥でなんとなく笑ってしまった。代わりにコンビニでアイスを買って帰る事にした。

家に帰ったら、顧問税理士から依頼のあった経費の修正をとっとと片付けてしまおう。キャンセル連絡をしてきたビジネスパートナーの会社の状況はどうだろうか。電話して、私にサポート出来る事がないか訊いてみよう。そして、Pod castの英語プログラムの、最近聴けていなかった回を聴こう。夕飯は何か夫の好きなものを作ろう。

ヘッドホンから流れる音楽は、最近お気に入りのビッケブランカだった。軽くリズムを取りながら、私はまた歩き出した。



コロナで世界がざわざわして2ヶ月。先は見えず、どうやら長期戦になりそうだ。

でも、私がいるのはトンネルの中ではない。私がいるのは世界だ。私の行き先や行き方は、私が自分で決める。

コロナがあろうが、経済がどうなろうが、この先、もっと大きな災害が訪れようが、その事自体、私にはどうにもできない。きっとまた、私は傷ついて涙したり、我を忘れて怒ったりするだろう。何かを失ったり、行き先を変えたり、行き方を修正する事もあるだろう。

そして、きっと少しずつ再生して、少しずつ先に進んで、少しずつ成長していく。人生はその繰り返しだ。それが生きていくという事だ。私も、そしてあなたも。

大丈夫、だからきっと、大丈夫。


おわり


後記:初の短編小説です。最後まで読んで下さりありがとうございました!

















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