水色の三角形

読んだ本の感想を書いてます。

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最近の記事

岸本佐知子『死ぬまでに行きたい海』

岸本佐知子のエッセイはちょっと変だ。たぶん、岸本さん自身がちょっと不思議なひとなのだろう。 と、言ったものの、このひとの書くものに限らず、エッセイというジャンル自体「ちょっと変」な作品が多いようにも思う。 そのほうが面白いから、というのもあるだろう。しかしそもそも、ひとはみなちょっと変だから、というのがより深い理由のような気がする。エッセイは、そうした個性的な「ちょっと変さ」が現れやすい場所なのだと思う。 * 「地表上のどこか一点」という、飼い猫の失踪にまつわる話が収

    • パヴェーゼ『美しい夏』

      読み終えた後、悲しみが残る本だった。 どこか見覚えのある悲しみだな、とぼんやり考えていたら、ジョン・ウィリアムズの『ストーナー』を思い出した。ストーナーという男の生涯を描いた物語である。 胡椒と唐辛子はどちらも辛い。でも、辛さの種類が異なる。それと似て、悲しみにも色んな味わいがある。『美しい夏』と『ストーナー』は、その「味わい」が似ている。 それは人の運命の悲しさだ。「悲しい運命」ではない。運命というもの一般の悲しさ。どうしてかわからないけど、「運命」を描いた物語は、僕

      • ジョゼ・サラマーゴ『だれも死なない日』

        これは例外の話だ。例外状態。 これまで読んだサラマーゴの作品は、どれもそうだった。『白の闇』も『見ること』も。特殊な状況に置かれた人々の話。本作では、ある国で、ある日を境に、人がだれも死ななくなる。 人はみんな死ぬ。死なない人はいない。いない筈だから、例外である。それが突然、常態になる。人々がその変化にどう反応するか。それが描かれる。 葬儀屋や保険屋が困る。人が死なないと商売あがったりである。重症・重病で瀕死(だが死ねない)の家族を抱えた人々も困る。病院も困る。政府も。

        • レヴィ=ストロース『構造・神話・労働』

          声のある本だった。本書は講演・対談集だ。もとが声で語られたものを文字に起こした形式である。だから、音声的に感じられても不思議はない。 ただ、わたしが感じたのは、音ではなく、声なのだ。身体器官としての声。文体や筆跡と似たような、レヴィ=ストロースの個人情報をそなえたものしての、声。 * 「構造」と「神話」と「労働」について語っている。タイトルの通りだ。しかし、「構造についての話」や「神話についての話」を通して、別のことが語られているような感じを受けた。 いや、少し違う。

        岸本佐知子『死ぬまでに行きたい海』

          ニック・チェイター『心はこうして創られる』

          タイトルからわかる通り、本書によれば、「心」は「創られる」ものだという。それは臓器のように、人の内部に「在る」ものではなく、表情や声のように、その都度「創造される」類のものだというのだ。 英語の原題は the mind is flat 、日本語にすれば「心は平ら」。本文中では「心には表面しかない」等と訳されている。その意味は、心には「深層」とか「奥行き」のようなものはない、ということだ。 * 心理学や神経学の分野での実験がいくつも紹介される。それらが証明しているようにみ

          ニック・チェイター『心はこうして創られる』

          セス・フリード『大いなる不満』

          一時期、翻訳者の岸本佐知子さんの訳書を集中的に読んでいたことがある。どの小説も奇妙、というかほとんど奇天烈な設定のもと、やはり奇妙な登場人物たちが奇妙なドラマを展開する(もしくは奇妙に、展開しない)。 それでいて、その小説には力強いリアリティがある。既視感さえ感じる。たぶん、そこには寓話のような性格があるのだと思う。 この『大いなる不満』を読んで、そのときのことが思い出された。寓話的に極端な世界設定と、そこから奇妙に生じるリアリティの感じ。 * たとえば、「フロスト・

          セス・フリード『大いなる不満』

          岡潔『春宵十話』

          すこし前、よく行く古本屋に寄ったら、入り口に近々店じまいをする、という知らせが貼ってあった。さみしい。これはその日に買った本。 書棚に並べられているのでなく、その辺に積まれてあった本で、背表紙ではなく顔が気に入って手に取った。 読んでみると、数学者というよりか、剣術の達人か、熟練の刀鍛冶の書いた文章みたいに感じる。「境地」という言葉が、ふと頭に浮かぶような一冊。 * 「情緒」についての話が多い。以前、小林秀雄との対談を読んだことがあって(すごく面白かった)、そのときも

          岡潔『春宵十話』

          千種創一『砂丘律』

          歌集を読むたびに、短歌を読むのって苦手だ、といつも思う。それなのに、ときどきまた短歌を読みに戻ってきてしまう。不思議ですね。 本の名前が『砂丘律』だからか、装丁の写真の背景の色からか、はじめから砂の色を感じる本だった。読むうちに、その色は「砂」ではなく「砂漠」のそれに変わっていく。 ボルヘスに『砂の本』という作品がある。この本から僕が感じる「砂色」は、グレーに近い。やや青ざめてさえいる。たいして、本書『砂丘律』から受け取る色は、疑いなく褐色を湛えた砂色だ。それは黄色く、赤

          千種創一『砂丘律』

          アーノルド・ゼイブル『カフェ・シェヘラザード』

          タイトルが素敵だ。と、思って手に取った一冊。この物語のカフェ・シェヘラザードはオーストラリアにある。あとがきによれば、実際にモデルとなった店があるという。 シェヘラザードといえば、千夜一夜物語(ちなみに自分は通して読んだことはない)の登場人物。毎夜、興味深い物語を聞かせては「続きは、また明日」と引き延ばすことで、シャフリヤール王からの処刑を免れ続けた王妃の名前だ。 「シェヘラザード」を経営する夫婦は、なぜカフェにこんな名前をつけることになったのか? と、いうのが、この物語

          アーノルド・ゼイブル『カフェ・シェヘラザード』

          アミン・マアルーフ『アイデンティティが人を殺す』

          読むのが難しい本だった。と、いって、内容が高度で難儀した、というのではない。 どちらかといえば、易しい本だと思う。どの本も、深く理解しようとすれば「簡単」ということはない。それはこの本も同じだ。 でも、難しさの程度というか、とっつきやすさには本によって一冊一冊に個性がある。晦渋な言い回しや、複雑な概念操作のために難読、という本もある。そして本書は全然そういうタイプの本ではない。 * 「アイデンティティが人を殺す」というのは、物騒なタイトルにも聴こえる。実際、物騒な話な

          アミン・マアルーフ『アイデンティティが人を殺す』

          フランソワ・グロジャン『バイリンガルの世界へようこそ』

          この本での「バイリンガル」という言葉の対象は、ずいぶん広い。いわゆる「標準語」のほかに地方語を操る者も含まれるし、「バイ」と言っても、三つ以上の言語に通じている者(プルリンガル、ポリグロット)も「バイリンガル」に含まれる。 読んでいると、言葉を数える、というのはどういうふうにやるんだろう、とふと不思議に感じたりする。互いによく似た二つの異なる言語と、同じ言語内での個性の強い二つの方言、それらはどうやって区別されているのだろう? * 著者グロジャンの見方によれば、たとえば

          フランソワ・グロジャン『バイリンガルの世界へようこそ』

          戸谷洋志『スマートな悪』

          『スマートな悪』というタイトルから、最初「テクノロジーを活用した、スマートな悪の手口」ようなものを想像したのだけど、読んでみると「スマートな社会における悪」についての本でした。 そうした意味での「スマートな悪」の特徴、というか、著者が注意を促すのは、その「悪さ」が視えなくなりやすい、ということだと思う。 * スマート(smart)は、ラテン語で「痛み」を意味する smerte という語源をもっている。この語は、痛み→刺すような→鋭い、という変遷を経て「知性が鋭い、賢い」

          戸谷洋志『スマートな悪』

          ジェニー・オデル『何もしない』

          昨年の暮れに、本屋でみかけて、タイトルが良い、と思った買った本。『何もしない』って良いと思う。何もしないのはとっても好きである。 さいきん「無」とか「無為」とか「〜しない」が個人的にけっこう気になるテーマになっている。たぶん、去年アガンベンを読んでいた影響だと思う。 「〜しない」は、「〜する」の否定形なのだけど、僕のイメージする「無・〜ない」は、実際に何かをする前段階。「未だ〜ない」という可能性に開かれた状態を維持するような、「〜し続ける」の逆、「〜しない続ける」(そんな

          ジェニー・オデル『何もしない』

          ボルヘス『シェイクスピアの夢』

          行きつけの本屋の新刊の棚に、この本があったので、迷いなくレジに持って行った。 何も考えずに、習慣のように手に取ってしまう本。歯を磨くとき手の動きを意識しないように、弾き慣れたフレーズを演奏するピアニストが運指について無意識なように。そういう本がある。 迷いなく手に取れる作家がいること。その作家の本に、行きつけの本屋で出会えること。こういうのは、けっこう嬉しい。しずかな幸せだと思う。 habit(習慣)の語源はhabere(持つ)だという。そしてhabereの反復をあらわ

          ボルヘス『シェイクスピアの夢』

          カトリーヌ・マラブー『偶発事の存在論』

          マラブーはフランスの哲学者である。読みやすい、というのが、本書『偶発事の存在論』の第一印象。「重い」トピックを扱いながら、語りに独特の軽やかさがある。「きっと難解な本に違いない」という先入観を持っていたこともあって、その軽快な読みやすさに驚いた。 けれど、第六章で躓いて、なかなか先へ進まなくなった。何度も前のページをめくり返して、書かれてあることの繋がりを探さなくてはいけなかった。時間がかかるし、時間をかけても読み取れない箇所も多かった。 でも、その読めなさがむしろ読書の

          カトリーヌ・マラブー『偶発事の存在論』

          パウル・ツェランとプリーモ・レーヴィ

          このあいだ、『パウル・ツェラン詩文集』という本を読んだ。ツェランはナチス時代を経験したユダヤ人の詩人である。彼の詩を読むのはこれが初めてだが、読み始めると、その経歴を意識せずにはいられなかった。詩のあちこちに、「収容所」が彼にもたらしたものの影が、色濃く強く反映されているからだ。 たぶん、そうした「収容所」のイメージの影響だろう。読んでいると、同じく収容所を経験したプリーモ・レーヴィの詩が思い出された。ひとたび思い出すと、読みながら、二者のあいだの共通点や相違点、そういうと

          パウル・ツェランとプリーモ・レーヴィ