見出し画像

アーノルド・ゼイブル『カフェ・シェヘラザード』


タイトルが素敵だ。と、思って手に取った一冊。この物語のカフェ・シェヘラザードはオーストラリアにある。あとがきによれば、実際にモデルとなった店があるという。

シェヘラザードといえば、千夜一夜物語(ちなみに自分は通して読んだことはない)の登場人物。毎夜、興味深い物語を聞かせては「続きは、また明日」と引き延ばすことで、シャフリヤール王からの処刑を免れ続けた王妃の名前だ。

「シェヘラザード」を経営する夫婦は、なぜカフェにこんな名前をつけることになったのか? と、いうのが、この物語の、最初のエピソード。この本の語り手マーティンは記者で、彼は同時に聞き手でもある。物語を語るのは、このカフェに集まる〈生存者〉たちだ。



〈生存者〉とは、生きてオーストラリアに辿り着いた人たちだ。どこから? 過去から。たとえば、現リトアニアのヴィリヌスから。ナチスの反ユダヤ政策から、ソ連のパルチザンから。虐殺から。ある人は家族を失いながら、ある人は誰かと恋に落ちながら。

〈生存者〉の語りについて、印象的なフレーズがある。

彼らは、それぞれの物語を繰り出してやまない。あたかも、語ることが、生き残ったことの証でもあるかのように。

ジョルジョ・アガンベンが『アウシュヴィッツの残りのもの』で、生存者と証言について書いていたことを思い出す。生存者にとって過去を語ることは、「もはや語れない犠牲者」のための「証言」という性格がある。

この『カフェ・シェヘラザード』から感じるのは、そうした証言の倫理とは別に、「語ることをやめられない」ような状態がある、ということ。物語とは、記憶からひとりでに生まれてくる生き物のようにも感じる。



カフェで語られる物語には、悲惨なエピソードが無数にある。残酷で、悲しく、無力感を誘う。けれど、ひとつひとつの逸話に力強さがある。運命がいかにして彼らをこのカフェに導いたのか。物語は世代を遡り、国を跨ぎ、他の語り手による補足や批判を受けながら、交わったり並行したりしつつ進む。

ちょうどシェヘラザードの話に聞き入るシャフリヤール王のように、続きを読むのをやめられない。悲惨なできごとについて興味津々な態度をとるのは、どこか不謹慎な後ろめたさがある。いっぽうで、そうして前のめりで聞き入ることでしか拾えない声もある。

物語は、たんなる史実の記録、事実的報告とは、異なる仕方でなにかを伝える乗り物なのだ。と、いうようなことも思う。



本書は、末尾に『千夜一夜物語』から引用された一文を添えて締めくくられている。

そして、夜が明けたのを見て、シェヘラザードは口をつぐんだ。これでようやく彼女に自由が戻った。

シェヘラザードは、王に殺されぬために、あるいは、王に殺させぬために、語り続けねばならなかった。『千夜一夜物語』とは、そういう物語だ。ここでは、沈黙することは、語る義務から解き放たれることを意味する。

生き残ったことを証するために、「カフェ・シェヘラザード」に集い、語ることをやめられない〈生存者〉たちの姿。彼らの物語はどれも興味深く、読むのをやめられない。

けれど、それは同時に、彼ら〈生存者〉たちは、まだ沈黙することが許されていない、それについて語ることで、未だ過去からの鎖に繋がれている、ということなのかもしれない。



それに関連して、本書の結末付近で、〈生存者〉のひとりザルマンが「瞬間」について語っていることが印象に残っている。

「いまになってわかるんですが、瞬間ってものがあるんですよ」とザルマンは言う。「そして、いつだってそういう瞬間はありうるんです。

だしぬけに、「瞬間ってものがあるんですよ」と言われても、ひどく曖昧にきこえる。「そういう瞬間」について、彼は続いてこんなふうに説明する。

わたしは、前みたいな孤独と恩寵の瞬間を求めて、ここでも散歩を再開したんです。すると、そういう瞬間がちゃんと戻ってきた。すれ違う人の軽い会釈、他愛もない笑顔、ふわっと吹いてくるそよ風、あるいは冬の朝、仕事に向かう道にかかっている霧、そういったもののなかに、ちゃあんとね。

それが、わたしの遍歴生活のすべてが教えてくれたことです。瞬間そのものが楽園であり、本当の聖域なんだってこと。ただ、単にその瞬間を見逃さないだけでいい。そして、それを味わい尽くせばいいんです。そうすれば、おそらく、人間がお互いに引き裂き合う癖も、ちょっとはおさまるんじゃないですか

「瞬間」とは、おそらく、現在との関係性のようなものではないだろうか。あるいは、「今そのもの」というか。「いつだってそういう瞬間はありうるんです」という言葉の意味は、今という瞬間を真に味わっていれば、いつだってそれは「楽園」や「聖域」になりうる、ということではないかと思う。

「瞬間」の楽園に浸っているとき、ザルマンは過去を物語る義務から解き放たれているようにみえる。生き残ったことを証することから。

物語を語ること、聞くこと、誰かに聞いてもらうことには、癒しの力があるように思う。いっぽうで、もう語らなくていい、というかたちの回復、ということもある。

末尾の一説にある、夜明けに口をつぐんだシェヘラザード。彼女がその朝みた曙光もまた、ザルマンの言う「瞬間」のような聖域だったのではないか、というようなことを想像してしまう。無数のカラフルな逸話、カラフルな語りのあと、とても静かに終わる本だった。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?