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セス・フリード『大いなる不満』


一時期、翻訳者の岸本佐知子さんの訳書を集中的に読んでいたことがある。どの小説も奇妙、というかほとんど奇天烈な設定のもと、やはり奇妙な登場人物たちが奇妙なドラマを展開する(もしくは奇妙に、展開しない)。

それでいて、その小説には力強いリアリティがある。既視感さえ感じる。たぶん、そこには寓話のような性格があるのだと思う。

この『大いなる不満』を読んで、そのときのことが思い出された。寓話的に極端な世界設定と、そこから奇妙に生じるリアリティの感じ。



たとえば、「フロスト・マウンテン・ピクニックの虐殺」は、毎年多数の死傷者を出しているピクニックに、なぜか毎年しっかりそれに参加してしまう住民たちのお話。これだけだと、たんなる不条理なストーリーにしか聞こえない。実際、不条理な小説ではあるのだ。

ただ、ここにある無力感。避けがたく惨劇に結びついているのに、それをやめることができない。そういう感覚には、どこか馴染みがある。極端な比較になるけれど、人間にとって生きること自体が、そうした不条理なピクニックなんじゃないか。と、ふと考ええてしまったりする。

このピクニックを主催する組織にも、どこか既視感がある。巨大すぎ、複雑すぎるあまり、もはや誰もその全体像と細部とを把握することができない、誰にもコントロールできない、そんな怪物的な組織。僕たちが「国家」とか「政府」と呼んでいるものと、このピクニックの運営の姿は(そのほとんど馬鹿げた設定にも関わらず)、やはり似ているようにみえてならない。



「ハーレムでの生活」は、ある日、唐突に王宮のハーレムに放り込まれた老書記のお話。彼は、なぜ自分がここに召喚されたのかがわからない。王の不興を買ってしまったのだろうか? そうかもしれない。よくわからない。わからないから、色々なことを考える。

ハーレムとは、王の欲望を満たすためにある空間だ。このかわいそうな主人公もまた、王に奉仕する女官の姿を目の当たりにして、己の情欲に苦しむ。そして、そこで王の意図を想像するのだから、自然、彼は欲望について考え続けることになる。

欲望とは、他者の欲望のことだ。というような言葉があるけれども、ここでこの男は欲望されること/欲望すること、というアイデアを頭のなかで何度も繰り返す。自分の目が女体に対して抱く欲望を王に投影し、王がそのような目で自分を欲望しているのだろうか、という仮説のもとで、自らをその「仮想の王の目」を通して眺める。投影の投影、反射の反射。

さらに彼は、王から「王の衣装を着て、王のふりをする」ことを求められ、代わりには王は、この老事務官の衣装に着替え、彼のふりをする。そして「王のふりをした男」が女官と交わり、「男のふりをした王」がそれを鑑賞する。この倒錯、この延々と続く視点の交換。

読んでいて眩暈がしてくるような話だけれど、ここにも、どこか奇妙な既視感がある。他者の気持ちを想像するとき(想像しない人がいるだろうか?)、僕らは基本的に、このかわいそうな男と同じ迷宮にいて、同じように一人相撲をしているのではないだろうか。



個人的に、特に印象的だったのは「ロウカ発見」。ユーモラスで楽しいけれど、暗い小説だと思う。「ロウカ」と名付けられた数千年前のミイラを調べるうちに、研究チームの面々がどんどんおかしくなっていく、というお話。

彼らはロウカにすっかり魅了されて、そのミイラに関する神話をつくりあげていく。そして自分たちでつくった虚構を信じる。ロウカを英雄と讃え、すっかり感情移入してしまう。ラボはロマンチックな雰囲気で彩られ、みんなが幸せそうだ。

ところが、ロウカが見つかったのと同じ山岳地帯で、ロウカと同時代のものとみられる別のミイラが発見される。その新しいミイラは、ロウカよりずっと力強く姿をしている。その発見に、研究チームのメンバーはすっかり取り乱してしまう。なぜか?

研究者たちは、ミイラの状態や、発見された場所などの限られた情報をもとに、彼の生前の姿を再現していくのだけれども、数千年前のことであるから、当然、多くの部分は推定であり、仮説に過ぎない。だから、ロウカにまつわる英雄譚は、研究チームの想像力によって補われたものだ。

想像によって英雄をつくりあげていくとき、そこにはバイアスがあるだろう。たぶん、研究者たちは、「理想の自己像」をロウカに投影しながら、その神話を織り上げていったのではないかと思う。それゆえに、この神話は彼らにとって心地よく、熱狂しやすく、信じやすい(なにしろ信じたいことを物語にしているのだから)ものだったのじゃないだろうか。

新たに発見されたミイラは、その神話を転覆させるようなものだったのだろう。その力強い姿は、ロウカから感じられた「優雅さ」を「軟弱さ」のように思わせる。そして、そこには自己が投影されているのだから、気分がよくはない。

そうした印象だけでなく、新たなミイラから得られたデータは、「科学的なエビデンス」として、ロウカの英雄性をどんどん剥がしていく。ロウカは山に挑んだのではなく、追い立てられて逃げる途中で命を落とした、というのがもっともそれらしい仮説であるという。

自分でつくりあげた虚構を信じることで、逆説的に、自分の信じたいものの足場が崩されるような感覚。自分に都合のいいように編集された物語(妄想)とは、呪われた神話なんじゃないか。と、いうようなことを思った。暗い。

僕がグロテスクだと思うのは、たとえば、「自分は英雄だ」と信じている卑劣漢、のようなものに自己投影していることに気づいたとき、その当人が、反射的に「自分を英雄視する卑劣漢」として自らの姿を捉える瞬間だ。そのときの恥の感覚を想像すると、いたたまれなくなる。



明るい側面があるとすれば、この研究者たちも、そう遠からずすっかり立ち直るであろう、ということ。ロウカにあっという間に感情移入してそれに熱狂するのと同じ素早さで、その落ち込みや恥の感情を脱ぎ捨て、新しいものに熱狂するんじゃないか、と思う。

人はどのみちこうした妄想からは逃れられない。人は妄想する生き物なのだ。自分が昨日まで信じ切っていたものを、今日にはカジュアルに裏切って、明日には正反対の信念を口にしたりできる。人間は誇り高いときもあるけれど、同じくらい、恥ずかしい生き物でもある。

と、書いてみて思ったけれど、別にこれは明るい側面ではないのでは。でも、ちょっと笑えるというか、「まあ、そんなもんだよね」という感じがしませんか? 僕はそんなもんだと思います。

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