パヴェーゼ『美しい夏』
読み終えた後、悲しみが残る本だった。
どこか見覚えのある悲しみだな、とぼんやり考えていたら、ジョン・ウィリアムズの『ストーナー』を思い出した。ストーナーという男の生涯を描いた物語である。
胡椒と唐辛子はどちらも辛い。でも、辛さの種類が異なる。それと似て、悲しみにも色んな味わいがある。『美しい夏』と『ストーナー』は、その「味わい」が似ている。
それは人の運命の悲しさだ。「悲しい運命」ではない。運命というもの一般の悲しさ。どうしてかわからないけど、「運命」を描いた物語は、僕を悲しませる。やるせない気持ちになる。うつむいてしまう。
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ジーニアとアメーリア。『美しい夏』は、この二人の女性の物語だ。あいだに、グィードという男がいる。彼を蝶番のように挟んで、ジーニアとアメーリアは向かい合って折り畳まれるみたいに、お互いを見つめる。
歳上のアメーリアは、少しジーニアより世間擦れした雰囲気がある。ジーニアはもっとみずみずしく、繊細な感じ。虚弱とは違う繊細さ。fragile より sensitive に近い。感度が鋭すぎて、触れるとすぐに炎症を起こしてしまいそうな、そういう繊細さ。
ジーニアのそうした若い繊細さは、遠からず摩耗していく。読んでいると、それがわかる。というのも、アメーリアの姿は、数年後のジーニアの姿にほかならないからだ。アメーリアもかつてはジーニアのように繊細で、扱いかたのわからない熱を抱えていたのだろう。
アメーリアの姿は、ジーニアの未来を映している。反対に、ジーニアはアメーリアの過去を。
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過去の自分とよく似た人、というのは億劫な感じがする。「昔の自分を見ているようだ」と思うとき、苦笑が浮かぶ。苦さと笑みが混ざった反応。
思い出したくない過去の失敗を見るのは、苦い。reluctant な感じ。「イヤな気分になるなあ」と、どうも関わるのに気が進まない。
いっぽうで、似た境遇の人には共感するところもある。つい同情してしまう。自分と同じ痛みを抱えた人には、優しくなれる。だから、気が進まないのに、ついおせっかいを焼いてしまう。
ジーニアとアメーリアのあいだでは、この同族嫌悪とシンパシーが交互に現れている。気に触る、気にかける、どちらも相手に注意を奪われている点では同じである。
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アメーリアには、傷つきやすいジーニアが、これからもっと傷つくことがわかる。ジーニアのなかに息づいているのは、かつて自分が生きた若さだからだ。読者にもわかる。そうなるほかないような生き方を、ジーニアはしている。
若いときは、自分は永遠に若いまま、みたいな気分がある。誰だって老いる。と、知識としては知っている。でも感覚としてはわからない。ジーニアには、アメーリアがどうしてこんなふうなのか、わからない。
災害によって破壊された集落をみて、そこに住んでいた人の暮らしを想像する。みんな、悩んだり笑ったりしていたのだ。ご飯がおいしいとか、家族の病気が心配だとか、来年にはどこへ旅行に行きたいだとか。色んな感情があったはずなのに、もうここにはない。廃墟しかない。
ジーニアをみていると、そういう気分になる。彼女は恥ずかしがったり、笑ったり、気持ちが抑えられなくなったり、嫉妬に嫌な汗をかいたり、かと思えば、アメーリアが愛おしくなったりしている。全部、そのうちなくなってしまう。土砂崩れがふもとの村を根こそぎにするみたいに、時間が、若さと繊細さを削りとっていく。若さは老いに呑まれる運命にある。
そういう「いつか消えてしまう」という気分で、ジーニアのひたむきさ、繊細さを読む。そうすると、ページを閉じた後、うつむいてしまう。
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