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カトリーヌ・マラブー『偶発事の存在論』

マラブーはフランスの哲学者である。読みやすい、というのが、本書『偶発事の存在論』の第一印象。「重い」トピックを扱いながら、語りに独特の軽やかさがある。「きっと難解な本に違いない」という先入観を持っていたこともあって、その軽快な読みやすさに驚いた。

けれど、第六章で躓いて、なかなか先へ進まなくなった。何度も前のページをめくり返して、書かれてあることの繋がりを探さなくてはいけなかった。時間がかかるし、時間をかけても読み取れない箇所も多かった。

でも、その読めなさがむしろ読書の喜びを増してくれたとも思う。滑らかに進む読書、優雅に流れる読書はもちろん心地よい。けれども、惑いながら行ったり来たりする迷路のような読書も悪くない。正直、惑いたくて本を読む、というようなところもなくはない。

読み終えてページを閉じた後も、この本の時間が続いていくような本だった。



「破壊的可塑性についての試論」と副題にある通り、本書は「破壊的可塑性」という概念についてのものだ。

第一〜第五章をとおして、マラブーは、「変身」や「脳損傷」、「老い」など、いくつかの典型例に触れながらその概念を説明する。(今になってみると、自分が「読みやすい」と感じたのは「概念を操作して何かを述べる前段階としての、その概念の説明のパート」だったのかもしれない、と思う。)

乱暴に要約すれば、破壊的可塑性とは次のようなものだ。もっぱら否定的な、取り返しのつかない変化にまつわる可塑性。

オウィディウスの変身譚をひきながら、マラブーは指摘する。古典的な変身は、その姿・外形のみを変えるもので、変身者の内面、その「本質」は変化していない、と。破壊的可塑性においては「本質の形」も変化を被る。

そうした「破壊的な変化」の例として、マラブーは脳損傷をあげる。脳損傷はときに、その持ち主の全人格に変更を迫る。そうした外傷は、ある人を「以前とはまるで別人」のように変えてしまう。ここで「別人」と呼ばれるものは、その人の(内面の反映としての)人柄や性格のことであり、変身は外見より内部において起こっている。「以前のその人」はどこかに消え失せてしまったかのようだ。

誰しも、たとえば幼少期と壮年期とを比べれば、ある種「まるで別人」のように異なる。そうしたいわば「変化一般」も、取り返しは効かない。ならば「破壊的可塑性」は、変化一般とどのように区別されるのか?

マラブーは、今度は「老い」を例に、そこで起こる変化にふたつの相があると述べる。ひとつは、漸進的・連続的な変化(少しずつ老いる)であり、もうひとつが、瞬間的な・突然な変化(突然老け込んでしまう)だ。

後者の変化、突然に訪れる、瞬く間になされる老いが、破壊的可塑性における変化だという。唐突で、過去との連続性を切断してしまうような変化。若さのうちにある人が、あるできごと(偶発事)を境に、すっかり老いの中にいる自分を発見すること。現在と過去につながりが見いだせないような老い方。

連続性が切断される、ということ。個人の歴史が、あるポイントで途切れ、消え去り、まるで別の流れのなかに投げ込まれる。破壊的可塑性という言葉が表現する、「変化一般」との違いは、こうした「連続性の切断、過去の痕跡の消去」ではないか、と僕は思う。



しかし、どれほど連続的にみえる変化も、細部に目を向ければ、極小の離散的変化の蓄積とみなすこともできるだろう。飛ぶ矢のパラドクスのように、離散的変化を認めなければ、変化そのものが不可能である。

短期間に大きな変化が起こったとき、そのギャップの深さから、それはもはや「連続的」とみなされなくなる。とすれば、破壊的可塑性と変化一般(あるいは創造的可塑性)との差は、変化のギャップがあまりにも大き過ぎること、つまり程度の問題ということになるのか。

その人の変形を極端にまで推し進めているのは、コナトゥスの一連の幅のなかでの変化ではなく、その構造そのものの変化であることを強調せずにいられるだろうか。[…]破壊的可塑性は、実現可能な形のレパートリーが尽きて、もはや何も提供できなくなる地点で、消滅による造形を行うのだ。

たとえば「大きい/小さい」といった程度の区別は、ある尺度に照らして測られる相対的なものだ。そうした尺度をはみ出るような、尺度の枠組みそのものが変更されるような変化。あまりにも甚大な被害をもたらした自然災害が、災害を測るスケールの成り立ちそのものを変えてしまうように。それは「程度問題」と言ったときに、想像できるものの外側に達する「程度」だ。

したがって、破壊的可塑性は、程度問題には還元できそうにない。それは「大きすぎるとは何か」ということが問い直されるような事態である。そのようなできごとに対し、「破壊的可塑性とは、程度が大きすぎる変化だ」という態度で臨めば、つねに理解し損なってしまうだろう。



変化の現場よりもむしろ、破壊のもたらす結果、そこで爆破によって「塑形」されたものの姿に着目する方が、破壊的可塑性のあり方を伝えているようにも思う。破壊的可塑性が作動したあと、そこで人はどのような姿を見せるのか。

その時、人は生きているものには見えない。しかし、生きていないものにも見えない。おそらく、生命をもつものと生命をもたないもののあいだにある何かを想像してみなければならないのだ。[…]その人の顔、つまり、その時その人がどのように見えるのかと言えば、それは、その人がもうそこにはいないと知った時に他の人びとが見せる顔に近いのではないかと、私は思う。もちろんそれは、ほとんどの場合に、もうどうにも関わりようがないという意味での無関心の顔である。

クリティカルな脳損傷、深刻な精神的な外傷を被ったとき、人は自分自身にも他者に関心をしめさなくなるという。無関心と冷淡さ。破壊的可塑性のあとに残る、こうした様子は、その変化が「自分を自分として認めることができない」という、「自己への無関心」に由来する。と、マラブーは説明している。

主体の逃亡。個人存在は自らよそよそしいものとなってどこかにいなくなってしまう。もうそこには、誰の姿も認められない。自分を自分として認めることができない。自分で自分を思い起こすことかできない。

この無関心にまつわる部分を読んでいるとき、僕はプリーモ・レーヴィが『溺れるものと救われるもの』で語った「回教徒」の姿をイメージした。衰弱により、呼びかけに一切の反応を返さなくなった収容者たち。そこでは「収容所」が、破壊的可塑性を作動させる政治的装置となっていたのだろう。

マラブーの語る取り返しのつかなさとは、その変化を被ったあと、人が「生きているものには見えない。しかし、生きていないものにも見えない」と形容される姿になってしまう事態を指しているのではないか、と僕は思う。単に不可逆である、という以上に深い損なわれ方。「生きていないものにも見えない」という言葉は、それが死とも違う、異様な取り返しのつかなさを備える経験だと告げているように聴こえる。



以上、第一〜第五章までを、自分なりにざっと振り返ってみた。ここまでが「読みやすい」と思えた場所。(実際には、マルグリット・デュラス、トーマス・マン、プルーストらの作品に触れながら進んでいて、このあたりのテクスト解釈の読み味も楽しい。)

その先、僕が躓いた第六章は「否定的可能態」という概念を論じることに捧げられている。それは次のように始まる。

「ノー」を言うことは可能だろうか。決して「イエス」へと覆ることのない、きっぱりとした「ノー」を言うこと。こうした問いが、偶発事の存在論の必要性を明確なものにする。[…]もっぱら否定にのみ結びついているような、可能態の様式は存在するのか。可能なもの一般の不可侵の原則と思われるもの、すなわち肯定の原則には回収することのできない、ある種の可能態。ほかでもない、破壊的可塑性は可能だろうか。

ここで投げかけられる「問い」の意味が、僕にはうまく把握できない。なぜそれが「偶発事の存在論の必要性を明確なものにする」のか?



なにかを否定するとき、「ノー」を突きつけるとき、そこには常に、反転したものの肯定、逆向きの「イエス」の側面がある。何かをすることへの「ノー」は、しないことへの「イエス」である、というふうに。

絶対的な否定は、その原理において肯定的なのである

マラブーは、フロイトの「否認」概念を手がかりに話を進めるのだが、否認もまた、その身振りを通して逆説的に無意識を告白する、という、裏返った「イエス」の性質を持つ。否認のメカニズムをそのまま否定的可能態にあてはめることはできない。

また、フロイトの否認は「抑圧」概念と深く関わっている。ここでマラブーが明らかにしようとしている破壊的可塑性の原理は、過去を切断し、あるいは消去するものだ。対して否認は、「過去の体験」によって抑圧されたものが回帰する、という仕方で作動する。みずからの過去に依存する否認は、過去を切断する破壊的可塑性と、根本的に成り立ちが異なる。

では、否認にとっての抑圧のように、破壊的可塑性を駆動させるものはなにか。それが偶発事だ、とマラブーは言う。ひょっとすると、「こうした問いが、偶発事の存在論の必要性を明確なものにする」の意味は、ここで明らかになっているのかもしれない。僕にはよくわからないけど。すみません。



マラブーの言う通りに、破壊的可塑性について考えるために偶発事の存在論が必要だとして、そもそもなぜ、破壊的可塑性が、否定的可能態が語られなくてはならないのだろう?

僕が躓いているいちばんの原因は、この辺りにあるのだと思う。つまり、この本が書かれなければならなかった理由、その文脈が掴めなていないから、その意味がわからないのだ。と、思う。

マラブーはいったいどこを目指して、あるいは、どういった動機から、このことを語ろうとしているのだろう?

否認のもとでの可能態、つまり、まったく別の出自に対する執拗で揺らぐことのない信仰は、未来をもたらすものの一切に対する約束や信念や象徴的構成を拒絶する破壊的可塑性のもとでの可能態とは異なる。約束の構造は解体不能であるというのは、真実ではない。来るべき哲学は、このメシア的構造が解体する空間を探求しなければならない。

ここにみられる言葉遣い、「来るべき哲学」や「なければならない」という、何かを要請するような言い回しは、本書が配置されるべき文脈を暗に伝えているように見える。約束の構造、メシア的構造が解体される場を見いだすこと。それがマラブーにこの本を書かせたモチベーションなのだろうか。

ここで解体されようとしているのが「メシア」概念ではなく「メシア的構造」ならば、たとえば「神による救済計画」や「救世主の到来」というできごとの背後にある「構造」が問題になっている。そしてそれが、「約束の構造」とも呼ばれているのならば、解体されるべきは、ある種の時間の把握の仕方、ということではないか。

上述の引用部は、「否認のもとでの可能態」と「破壊的可塑性のもとでの可能態」を対比しながら、「約束の構造は解体不能である」ということを否定し、メシア的構造の解体の必要性を説くものになっている。「まったく別の出自に対する執拗で揺らぐことのない信仰」と表現される、否認が(抑圧が)形作る可能態。それはいわば、現状を否定し、それとは全く別様の可能性を夢みることだ。

そこで夢みられている、未来で果たされるべき「約束」とは、おそらく「救済」と言い換えられるものだらう。第一〜第五章でマラブーが描いてきた破壊的可塑性がもたらす変化の姿は、その「約束された救済」が決定的に不在であること、それがあくまで「夢」に過ぎないということを示しているかのようだ。

本書の末部で、マラブーは次のようなことを語っている。

存在の歴史それ自体が、おそらく、ひと連なりの偶発事でしかない

「ひと連なりの偶発事」のあいだに因果関係を見出して、連続性のあるものとして個人の歴史を捉えることは、デタラメに集めた素材を結び合わせて「夢」を紡ぐことに過ぎない、編集された虚構に過ぎない、ということだろうか。

「時間の把握の仕方」としての「メシア的構造」や「存在の歴史」を、「偶発事の存在論」によって別様に把握し直すこと。破壊的可塑性が私たちに見せつける光景は、そうした新たな時間との関わり方を見つけ出すことの必要性を印づけていると、この本は語っているのだろうか?

ふと、そうした目線から、少し前に流行った「テクノロジーの加速度的な進歩によって〈シンギュラリティ〉が到来する」という言説を振り返ってみると、これはメシア的な終末論の構造をそっくりそのまま受け継いでいるかのようだ。超知性となるまでに発達したスーパーAIとは、要するに新しいスタイルで着飾ったメシアである。

いっぽうで、スマートフォンの普及、新型ウイルスの発生と流行といった「偶発事」が、いつでも私たちの生活を変化させているようにも思えてくる。タンパク質の殻と核酸からなる極微小の物体が、世界規模でヒトという種の生活習慣を変えさせたのだと思うと、なんだか「人の歴史」とは何かよくわからなくなってくる。そこにどのような「約束」が入り込む余地があるというのか。

と、思いつきを書いてみたものの、第六章についてはまるきり誤読している可能性の方が高いので、全然関係のない話かもしれない。ただ、誤読だとしても、この本が僕にこういうことを考えさせたことには変わりない。そして個人的に、読んだ者に考えさせる本は良い本である、と思う。



いろいろ自分なりに考えてみたものの、けっきょく、「よくわからない」ということは変わらないみたいだ。でも、読んでいて楽しかった。ただ、「わからないけど楽しい」というだけで終わりでもない。この本は僕を落ち込ませるところがある。

破壊的可塑性は、すべての可能態が尽きてしまったところから、作動を開始する。一切の潜在性がとうに失われてしまった時、大人のなかにあった幼年期が消えてしまった時、全体のまとまりが破壊され、家族の精神が消え去り、友情が失われ、絆が消失してしまった時、砂漠のような生はその冷淡さを強めてゆき、そのなかで破壊的可塑性が作動する。

ここなんか、なんとも暗鬱な一節ではないですか。生が含み持っていた可能な変化のレパートリーには登録されていない、まったく予期できないかたちの(あるいは、不可能に思われていた)変化。破壊による塑形。なにもかもが尽きたあとの「砂漠のような生」。それは、水脈が失われて干上がり、ひび割れた荒地、あるいは露出した無惨な川床のようなイメージ、行き詰まりのイメージを僕に与える。

ここより先にはなにもない。そういう感覚。あるいは、その背後に、その裏側に。なにか隠された原理のようなものはなにもない。そこには空無しかない。むしろ、「神秘はない」という神秘がはしたなく露出しているような、「浅さ」が「深さ」を打ち負かしてしまったような感じ。そういうのって、イメージしていて気が滅入るものである。

破壊的可塑性によって生み出されたものは、耐えがたいほどに浅い。その裏側にいかなる神の采配もない。そのできごとは、徹底的に無意味に、因果関係を見出せないようなかたちで、予測不可能な仕方で唐突に起こる。

親しかった人の顔が、無関心に上書きされ、その目の奥には何の真実もない。そこでは物事の底の浅さが、個人的な経験の深みを上回っている。そこにはいかなる償いも贖いもありえない。全き否定性。

読んでいると、そういう救いのない場面を何度もイメージすることになる(そういうのがたくさん書いてあるのだ)。その時間は、ずいぶん僕を落ち込ませる。

この本はとても好きだし、また何度でも読み返したい、と思う。だいいち、もう少しくらい「読めたい」と思うし。けれど、あまり長い時間一緒に過ごしてると、心身に良くなさそうである。

ほどよい距離感で、ときどきまた惑いに訪れようと思う。元気なときに。

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